Kizunamail Project 代表のblog

過去の自分と未来の貴方に向けて書いています。

読書メモ:みんなの「わがまま」入門。

f:id:yukkiestar:20210419192555j:image

個人レベルでのソーシャルアクションがなぜ大事かを、中高生にもわかるように教えてくれる一冊。自分への備忘とスタッフへの共有を兼ねてメモ。以下、


●=キーワード

地の文は同書からの引用

▽=僕のメモ。

 

✳︎ ✳︎ ✳︎

●「個人化」

個人化しているのにも関わらず、それでも親世代から脈々と受け継いだ「ふつう」の幻想を持ち続けている (P 35)

たとえ同じ空間、時間を過ごしていても、同じ学歴や年代や家族であっても、まったく異なる経験をしていて、まったく異なる苦しみを抱えていることは珍しくない。( P 42)
マンハイム「存在非拘束性」

どんな知識も、あくまで物事を捉える「見方」であって、どこかの立場から物を見ている以上、全てを見通すことができない(P158) 

▽いずれも「セレクションバイアス」「観測選択効果」に通じる概念。プラトンの洞窟の比喩もこれに近いような。そもそも「全体」は実在しない。

「経験運動」

もやもやについて話し合う過程が社会運動になることは、近年の社会運動論でもよく指摘されていて、理論的には「経験運動」と呼ばれることもあります。 (P 180) 

▽もやもやについて話し合うとことは、モヤモヤを言葉にする身体的な「経験」して、それがアクション、つまり「運動」に結びつく。

 

●「資源動員論」

それまでは、怒りや感情が人々を社会運動へと押し進めるのだと言われてきた。しかし、資源動員論を唱えている人たちはどちらかといえばクールで、「お金とか時間、そういう資源を持っている人が参加するに決まってるやん」と言います。 (P251) 

よそ者は、 少なくとも彼らに比べればずっとお金や体力という資源を持っている。だから社会運動に参加して、自分のことではない問題を世に訴えることができるとも言えるのではないでしょうか。(P253)

▽資源のある「よそ者」が参加することで、状況が動いていく。状況は当事者だけでは動かせない。海外の子どもの問題に寄付が集まるのは、こういうことなのかもしれない。


(この本を書いた動機として、今の若い人々が)議論の中で感じたことは、彼らがいかに周囲に配慮し、空気を壊さないように生きているかということだ。(P267)

▽息苦しい。もう少し楽にできればと思う。先に生まれた者としては。

 

みんながもっとあいまいな世界に生きている、だから自分もそうしていいんだと考えれば少しは楽になるんじゃないかな、と思います。 (P 222) 

そもそも、私たちの人生ってコロコロ変わります。(P254)

▽変わりますよね。こういう物言いにホッとします。

 

通勤路のジャスミン・ウォール。

f:id:yukkiestar:20210420091018j:image

 

現代詩の価値について

f:id:yukkiestar:20210330205719j:image
先日ミーティングで、「現代詩が支えでした」と述べることがありました。言葉にしたことで、現代詩の価値を伝えるのは、恩恵を受けた者の役目かもと感じました。大量情報時代の今、詩は絶滅危惧種です。良いものだから残るとは思うけど、残す努力はしないと。冷めないうちに実践します。
 
* * *
 
詩を読み始めたのは、20歳代後半のある朝でした。出勤前に「英語の科学的学習法」という本を読んでいたら、「日本人は犬を『犬』と認識するが、アメリカ人は犬を『dog』としか認識しない」といった一文があり、これを読んだ時「人間は言葉でできている。ならば詩だ」となり、そのまま家を出て荻窪駅前のブックオフに寄り、詩集らしきもの探して開いたときに出会ったのが、この作品でした。
ことば
 
谷川俊太郎

問われて答えたのではなかった
そのことばは涙のように
私からこぼれた

辞書から択んだのではなかった
そのことばは笑いのように
私からはじけた

知らせるためではなかった
呼ぶためではなかった
歌うためでもなかった

ほんとうにこの私だったのだろうか
それをあなたに云ったのは
あの秋の道で
思いがけなく ただ一度
もうとりかえすすべもなく
 
詩は言葉の運動です。哲学や論理の別の顔です。人間は言葉でできているので、紙の黒い模様(=文字)や脳に浮かんだ音の並びで、いつもの世界が違って見えてくる。それはスペクタクルで官能的で、脳がねじれるような感覚。短いので、身体ひとつで持ち運びできます。
 
この「ことば」という作品は、「私」が何をいったかはわからない。答えがあるわけでもない。でもそこに何かあったように感じられ、それを知りたいと思わせてくれます。
 

これを読んだとき「ああ、これこれ!」と説明不能な納得をしてその詩集を買い、詩を読む日々が始まりました。

 

好んで読んだのは谷川俊太郎黒田三郎鈴木志郎康石垣りん小池昌代など。記憶力は弱いですが、フレーズはいっぱい覚えているので、身体化されているのでしょう。

 

* * *

 

記憶はウソをつくので、僕の「ある朝から突然、詩を読むようになった」というストーリーは、割り引いて捉える必要があります。

 

僕の読書はそれまで、ミステリーやSFでした。それでも、韻文などの「詩」が、文学として最上級の敬意を払われていることは知っていました。その秘密を知りたいと思っていて、この朝、自分なりの手がかりを得たのだと思います。20年以上も前の話です。

 

詩は短詩形、light verse ともいわれ、世界中で親しまれている言葉の形です。短歌や俳句、漢詩も詩のバリエーション。TwitterなどのSNSにも、詩に通じる言葉の運動が見られます。

 

検索したら、僕が好んだ作品が若い人々に評価されていて嬉しくなりました。良いものが時代を超えてアーカイブされるのはネットのよいところです。

 

大量情報時代は、自分に何をインプットするかを選べます。詩のような言葉の運動は、日常の風景を変化させます。夕焼けを見て「美しい」という語を結んだ瞬間、その風景が「美しく」なる。瞬間が永遠になる。こういう時間を誰かと共有できれば、素敵ですね。

 

東大前の桜。

f:id:yukkiestar:20210330210142j:image

 

 
 

読書メモ:モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究

f:id:yukkiestar:20210207105252j:image

悲痛なタイトルですが、中身は、男性であることに苦悩する男性たちが、「当事者研究」という形で、自分の感情を丁寧に言葉にしていくプロセスでした。その緻密さにリスペクトを感じます。

 

男性は自身の痛みや不安、困難を語らない/語れないという指摘や、 被害を被害としては認知しない傾向にあるという指摘がある。 男性は自分の弱さを見せてはならないと教えられて育ってきている場合が多いし、自分の弱さを見せようものなら、周りの男性に男らしくない男性とみなされ、 集団の中で周辺に追いやられてしまう危険さえある。不安、苦痛、葛藤といった感情は、いわば男性的感情規則から逸脱しているのだ。そのせいでずっと一人で悶々と悩み続けたり、その経験に目を背けたり否定したりしてしまう。(P96)

 

男性は、弱い自分を見せてはいけない、辛さを伝えて助けを求めるのは恥だという規範は根強い。僕自身も囚われている自覚があります。

 

言葉にできないことにイライラする。爆発する。やがて暴力となる。これが状況を変える成功体験として積み上がってしまうと、内面化して「オラオラ」になる。

 

イライラ→オラオラ。

 

逆に抑え込んで、心が病んだり、認知が歪んだり。こうしたことに至らないためにも、辛いことを「辛い」、悲しいことを「悲しい」と言えることが、いかに大事か。わかっているけど、50年以上オラオラを内面化してきた自分を変化させるのは、容易ではありません。

 

フラットな対話は大事ですが、対話は「自分の考えを言葉にできる」ということが暗黙の前提です。そもそも、うまく言えない、伝えられない人に、対話は酷です。脳の機能からみても、考えや感情を言葉にできるできないは、個人差があります。話し言葉は、とくに個人差が大きい。この点は男性も女性も変わらないと感じます。

 

悪意は対処されなければ、循環する。どうしてこんなにも、現代の日本社会が悪意に満ちているのか ーー私は、世代を超えて過去のツケが回ってきているのだと思っている。その最たるものは、戦争の被害・加害によるダメージである。 被害経験もさることながら、加害責任と向き合ってこなかった日本社会のツケは大きい。敗戦後、非人間的経験を経て戦地から帰ってきた男たちが作った家族が、闇を抱え込んだまま、次世代、次々世代を育ててき。過去を学ばないものは、同じ過ちを繰り返すだろう。もちろん、片棒を担いだ女たちにも責任がある。(P286 解説) 

 

「悪意」を「怒り」とも捉えられます。

 

子ども虐待の根っこに、比喩ではなく、75年以上も前の「戦争」があると感じることが何度かありましたが、この解説も同様の指摘で、近い見方をする人がいる安心感を感じました。

 

戦争では、恐怖を怒りで克服する振る舞いが日常化します。「克服」だと良い事のようですが、実際は「転化」です。1931年の満州事変くらいから、日本全体が恐怖を怒りに転化する日々となり、戦後、これを内面化たち大人たちが社会を構成していく。怒りは世代を超えて伝わり、その残滓は今も僕の中にあると感じます。

 

「私を怒らせるとただじゃ済まないぞ」という暗黙のメッセージは今もしばしば受けますが、今の僕は、自信を持って、逃げるようにしています。「逃げるは恥だが役に立つ」し、人生は有限なので、大切な人との時間を優先するほうが良さそうですしーー

 

なんとなく春気配。

f:id:yukkiestar:20210208015757j:image

読書メモ:国道16号線: 「日本」を創った道

f:id:yukkiestar:20210203165657j:image

 

国道16号線―「日本」を創った道―

国道16号線―「日本」を創った道―

 

学生の頃、八王子に住んでいました。愛車スーパーカブで毎日、甲州街道にあるユーミンの実家、「荒井呉服店」の前を通り、左折して国道16号線に入り、大学のある「鑓水」(やりみず)まで一直線。ある時、大学正門の前でコケて右足を骨折し、後遺症が今もほんの少しあります。

 

同書の目次から興味深い部分だけ抜き出してみました。

地価高騰はクレヨンしんちゃん一家を呼び寄せた
クレイジーケンバンドと横須賀トンネルの秘密
矢沢永吉ユーミンルート16
ユーミンの16号線と六本木を音楽で結んだ
モスラが伝える日本近代と解雇の関係
用心棒のピストルはピートと交換
モスラの繭と皇后の眉が似ている理由
ポケモンを生んだ町田のカブトムシとインベーダー

 

関東地方で、先史時代は貝塚があり、戦国時代には城があり、戦後のニュータウンがある場所、「人が住みやすい場所」が連なったのが国道16号です。

 

その「人が住みやすい場所」とは「小流域」。「山と谷と湿原と水辺」がセットになった地形。 小高いので洪水はしのげて、降りていったら川があるので飲み水はある、森や湿原のおかげで狩猟採集には困らない、多少開けた場所で畑くらいはできる。

国道16号線は「小流域」地形が数珠つなぎになった道路なのです。

パソコンで記号を打つ仕事ばかりしていると忘れそうになりますが、同書は、僕らに物理的な身体があって、空間の中で生活していることを思い出させてくれます。コロナ禍で人と会う回数が減った今、余計に思い出させてくれます。

戦前の主力輸出品「生糸」は、八王子の養蚕で作られて、横浜港から輸出されました。八王子から横浜港への道は「シルクロード」と呼ばれ、羽振りの良さで鳴らした「鑓水商人」が活躍したそうです。

 

そして今、「鑓水 シルクロード」で検索すると、上位で出てくるのは「特養老人ホーム シルクロード鑓水」。歴史オタクの僕には、たまらない話。

ポケモンユーミンの音楽が生まれたのは、「小流域」地形のおかげ。

同書のあとがきが印象的でした。

取材に一番付き合ってもらったのは、妻と娘である。普段は渋滞の16号線が空くのが正月三が日である。正月の16号線を半周して車中から延々写真撮影を行い16号線沿いの遊園地の観覧車に乗る、ニコラのピザを食べるなどの取材に協力してもらった。感謝いたします。(P219 ) 

僕も、僕を国道16号に導いてくれた何某かに、感謝いたします。

 

 

 

カミングアウト問題としての「先にいる人/後から来た人」

f:id:yukkiestar:20210120140621j:plain

カミングアウト問題

僕はかつて、外国人登録証を持つ立場にありました。若い頃は、これを「隠している」と思われるのが嫌で、知り合った人には必ずそういう立場であることを伝えていました。だから知らない人はいませんでした。

でもある時、伝えることで人を試しているような自分に気づいてからは、ことさら言うのはやめました。ただひとつだけ、疑問が残りました。 

自分から言わなければ、なぜ「隠している」ことになるのか。なぜ僕には、「言うか言わないか」の2択しかなかったのか。カミングアウト問題です。

 

糸井重里さんの「今日のダーリン」 

ヒントを与えてくれたのは、「ほぼ日」糸井重里さんの「今日のダーリン」でした。

後から参入する者に、場所なんか空いてないのだ。
空いているとしても、最悪の場所だけだ。

(2013年10月10日「今日のダーリン」より)

僕は「後から参入する者」=「後から来た人」だったのです。

人は未知のものに、興味と恐怖を同時に感じます。「先にいる人」から見た「後から来た人」は、敵か味方か? 敵だと思われたら入れてもらえないし、最悪攻撃されます。

 

だから、「後から来た人」は自ら「怪しいものではありません」とアナウンスしていく必要があります。


カミングアウトは、マイノリティ(少数派)である「後から来た人」から、マジョリティ(多数は)である「先にいる人」に対してのみ必要になります。だから僕には「言うか言わないか」の2択しかなかったのです。

 

「最悪の場所」から与えられる

カミングアウトが受け入れられれば、「最悪の場所」から与えられます。「普通の場所」や「最高の場所」には、先に誰かがいるからです。その「先にいる人」も、かつては「後から来た人」だったはずです。

以来、あらゆる問題が、僕には「先にいる人/後から来た人」という、時間と空間の問題として感じられるようになりました。時間と空間の変化が折り重なって、世界ができているイメージです。

 

互いに少しずつ差し出す

そして、それぞれに役割があると考えるようになりました。

「後から来た人」は大抵の場合、新しさをもたらします。「先にいる人」はそれを受け入れることで、共同体の停滞を防ぎ、リフレッシュできます。


「後から来た人」がいられない共同体は、衰退します。目の前の無数の実例があります。


ならば「後から来た人」は、「私はこういう者です」と自ら名乗っていく。「先にいる人」は「お疲れ様。まあお茶でも一杯」の気持ちで受け止める。そんなところから始めて、なんとなく、互いに少しずつ差し出すような感じで進んでいくのがよいのではないかと。

 

限られた社会資源を奪い合うのではなく、増やせるような関係性をいかに結んでいくか。ゼロサムではなくプラスサムの関係を構築していくか。

この最初の出会いは、非暴力的で、それなりに礼儀正しいものであるはずです。

 

「きずなメール やさしい日本語版」のスピリット

先日、団体で挑戦した「きずなメール やさしい日本語版」のクラウドファンディングも、日本に「先にいる人」である僕らが、「後から来た人」たちをどう受け入れるか、という問題とつながっています。

 

今や「先にいる人」になりつつある僕は、まずこちらから「お疲れ様。まあお茶でも一杯」と伝えるところから始めたい。かつて極東の島国が、半島からやってきた僕の祖父母にそうしてくれたように。

"孤育て予防"でも、寄付を募ることができた!

団体設立10年の節目に挑戦した「やさしい日本語版きずなメール」のクラウドファンディングは、無事目標金額を達成することができました!

readyfor.jp

ご支援くださった方々はもとより、支えて下さったステークホルダーの皆様、Readyforのキュレーター、こどもギフトのインフルエンサーの方々、本プロジェクトのメンバーに、改めてお礼申し上げます。

 

ありがとうございました!

 

何より嬉しかったのは、

 

「"孤育て予防"でも、寄付を募ることができた」

 

ことです。

 

「寄付」による支援性資金調達は何にしても大変ですが、「きずなメール」は目に見える「場」がない、効果を実感しにくい「予防」、社会的マイノリティである「在住外国人の支援」という要素が重なる中、どこまでやれるか不安でした。

 

でも目標を達成できた。

 

「情報の隣人性」「テキストメッセージング」「弱いきずな」「ゆるやかにつながり続ける」などのわかりやすくない言葉遣いも、どこまで届くか半信半疑でしたが、受け止めてくれた方が何人も現れた。

 

ここまで、地味にコツコツいろんなことを積み上げてきた、ときに迷える僕を「大丈夫ですよ!」と支えてくれたスタッフのお陰です。この場で改めて、お礼をいいたいです。

 

ありがとう!

皆でここまで来れたのが、嬉しかったです!

 

last isuue だと思っている「エンドユーザーには無名、事業者には超有名」という矛盾に見える isuue でも理解を得られるかもしれない、との手応えも得られました。

 

いよいよこれに挑戦していきたいと思います。

 

荒川の夕暮れ。

f:id:yukkiestar:20210127150717j:image

 

新しい仕事を創り出し、後から生まれた人たちに受け渡して行く。

f:id:yukkiestar:20201231125419p:plain

団体の公式キャラクター「大丈夫3兄弟」と初日の出


あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!

団体設立10周年を機に、これからの20年後の世界と日本と団体とVisionについて考えています。すると、「きずなメール」が広がるとともに、「新しい仕事の形として一般化し定着する」というイメージが出てきます。

 

僕らは食べるために農耕を始めたと習いましたが、近年は、狩猟のうほうが効率よくカロリーを得られたという研究結果があります。食料難で戦争が起こったことはないという歴史の見方も出てきています。「食べるために仕事をする」ことに疑問符がついています。

 

僕らが「仕事」と呼んでいるものは、実際に何が行われているかは、よくわかりません。経済の仕組みの中で、書類やコンピュータの「0」のケタが増えると、カロリーが得られる。「事業規模」「受益者数」という「数字」を目標にして、「やり甲斐」「達成感」などの「感情」がやり取りされる。今生産されているものの多くは、無いと不便極まりないですが、無くてもどうにか生きていけるものばかりです。

 

だとしても、仕事を通して何かになりたい、何かをやりたい、満足したい、充実したいという想いがなくなることはない。仕事をしたい人が減ることはありません。

 

仕事は、それ自体を創り出し、残していくことだけに収斂していくのではないでしょうか。しかもこれは、新しいことではなく、過去に多くの人々がやってきたことで、同じことを、今僕らもやっている感触があります。

 

設立時からの長期目標のひとつが

 

・「きずなメール」のような取り組みが、一般化すること/標準化すること。

 

これができれば、雇用創出につながると思っています。

 

新しい仕事を創り出し、後から生まれた人たちに受け渡して行く。

 

僕らにこれができるかどうかはわかりませんが、できないと思ったら実現する可能性はゼロですし、そもそも「できない」と判断する合理的理由も見当たりません。

 

ということで、目指す形を実現するため積み重ねていきますので、今年もよろしくお願いします!


追伸
2017年頃にも似たようなことを書いていました。

ameblo.jp

あまり進歩していないのかも…汗

 

(https://note.com/yukkiestar/n/nadfa405891dd  より転載)