きずなメール・プロジェクト 代表のblog

顔と名前を出す人生です。

コレクティブハウスと山村留学

コレクティブハウス,コレクティブハウジング

今、僕は家族と「コレクティブハウス」という自主運営の賃貸住宅に住んでいます。そこに、山村留学していた子どもが帰ってきました。

 

「コレクティブハウス」は辞書や建築の教科書にも出てきます。

 

コレクティブハウスは、自分たちの住戸の外にもう一つの「コモンスペース」「コモンキッチン」「コモンテラス」等の共有スペースがあって、その外が正式な玄関です。「コモン○○」は居住者の組合が自主運営します。長屋を共同運営しているようなイメージです。

 

最大の特徴は、ご近所さん(←同じコレクティブハウスに住んでいる人のこと)と変わりばんこで料理当番をやる「コモンミール」。日々の夕食の支度をご近所さんがやってくれて、しかもたいてい美味しくて、食べる時はご近所さんや子どももいっぱいいてにぎやか。僕も料理当番(ミール当番)をやりますし、食べる食べない、自宅に持ち帰って食べるなども自由です。参考までに Hanakoママwebに出たときの記事を。写真も多数あります(^^)

 

hanakomama.jp

山村留学から帰ってきた子どもとは、1年以上離れて暮らしました。山村留学では、子どもは親元を離れて寄宿生活し、留学先の学校に通います。留学先の自治体は教育プログラムの一環として、受け入れを全面サポートしてくれます。

 

留学するには、本人の同意が必須です。うちの子どもは、自分で「行きたい」といいました。僕と妻は、可能な限り本人の意に沿いたいと考えて送り出しました。

 

山村留学では、毎日長い距離を歩いて登下校するので、数ヶ月したら子どもの歩き方が力強くなっていました。週末は農作業や野外活動が多数あり、キャンプや登山、スキーもあります。夕食は大人が作りますが、朝食は当番制で作ります。向き不向きはあるでしょうが、うちの子には向いていたようです。

 

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コレクティブハウスに山村留学。実験的に映るかもしれませんが、僕も妻も自然流れでこうなっていきました。僕自身が、子どもが生まれてから、「子どもは、複数の大人に囲まれて育ったほうが良い」と考えるようになりました。理由はいろいろですが、その一つに「学習機会が増える」というのがあります。

 

この「学習」は、勉強のことではなく、生物の「フィードバックの回路」です。火に近づいて少しやけどをしたことで、火が危ないことを学び、次から火に慎重になる「学習」です。

 

子どもは、異なる価値観のぶつかり合いや葛藤を見て「社会にはいろんな価値感がある」ことを暗黙のうちに学習します。核家族だと、学習するのは父と母の2つの価値観。父母の夫婦喧嘩を見て2つの価値観を学習する子どもと、そこにおばあちゃんが「まあまあ」と間にはいる3つ目の価値観を学習している子どもとでは、後者の方がソリューションの選択肢が増えます。

 

この「学習」は、教育ではどうにもならないところがミソです。人間のコミュニケーションのうち、言語情報はわずか1割、残り9割は非言語情報。親や教師が言葉で道徳を説いても、言葉にともなう行動や文化的規範を実際に見たり体験したりしないことには、学びが身体化しません。生活の中で、五感全体で情報を受け取るから、暗黙の「学習」になります。

 

僕はこの「学習」について、しばしば「味噌汁の豆腐の切り方」を思い浮かべます。日々の味噌汁の豆腐の、大きさや揃い具合が、母と父では微妙に違う。「母は絹ごして大きく切る」「父は木綿が好きで切り方が小さい」という非言語情報が、子どもにとっては「異なる価値観がある」ことを身体レベルで学習する機会になる。

 

コレクティブハウスのコモンミールでは、「味噌汁の豆腐」だけでも十人十色。同じ食材が、料理する大人によって違う味、形になるという文化的な差異を、子どもたちは日々、身体全体で学習しています。美味しいけど、どれも均一なコンビニのおにぎりでは得られない学習機会。山村留学の生活も、近いものがあると思います。

 

また僕は、「生活の中で水回りをどれくらい共用するか」が、非言語情報量を左右すると考えています。家族が家族であるのは、台所、風呂、トイレを一緒に使うから。親は子どものおむつを変える、一緒にお風呂に入ることで親密になります。「お父さんは会社ではエライらしいけど、トイレを使った後は入りたくない」とか「お父さんは会社ではさえないらしいけど、作るご飯は美味しい」いう非言語情報が、多様性を知る学習機会になる。

 

仮称「水回り仮説」は、コレクティブハウスの生活で気づいたことです。コレクティブハウスは世帯単位で水回りが独立していて、さらにその外にある共有スペースにもキッチンやトイレがあり、「井戸」のように機能しています。比喩ではなく、文字通りの「井戸端会議」が日々発生していて、早熟な子はこれに聞き耳を立てて、情報収集という名の「学習」をしています。

 

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「フィードバックの回路」は、浴槽が満杯になったらお湯が止まるとか、沸騰すると電源が切れる電気ケトルとか、機械でよく使われています。では機械と生命の違いはというと、生命は「自らフィードバックのルールを変える」ことができます。火に近づいたらやけどしたので、次は「熱いと感じたら近づきすぎない」と自らルールを変更できるから「学習」になる。コンピュータプログラムに「自らルールを変更せよ」というコマンドを入れると、壊れるそうです。

 

「自らルールを変更できる力」は「自らを変える力」であり、これは「自助」の原型ではないでしょうか。自ら変えることで、自分を助ける。ならばこの力は、生きているすべての人に生まれながらに備わっている。山村留学に自ら「行きたい」と言った子どもには、こういう力が働いていたのではないかと、なんとなく想像するのです。

 

そして現在。山村留学から帰ってきた子どもに日々感じるのは、僕や妻以外の、留学した土地の人々の存在です。子どもの中に、家族以外の他人の気配や息遣いを感じるのです。子どもがその人たちを信頼していることも、生活の中で伝わってくる。これはとても良いことのような気がします。子どもの中の他人が、ときに親である僕らを支えてくれているように感じられる瞬間もあります。

 

コレクティブハウスは、「楽しいけど面倒」「面倒だけど楽しい」、どっちから入るかいつも悩みますが、面倒をなくした快適な生活が簡単に人を孤立させることを僕は「学習」してきたので、住み続けるし、住むだけでなくこういう暮らしを増やしていきたいです。

 

ということで、このブログをアップしたこの日の夕飯は、ご近所Oさんが久々のミール当番!料理上手なので、楽しみです(^^)

 

追伸

山村留学は、子どもの個人情報があるので詳しく書いていませんが、興味がある方はこちらまでお問い合わせください。

i_oshima●kizuna-mail.jp

●を@に変えてください。