きずなメール・プロジェクト 代表のblog

顔と名前を出す人生です。

「子どもの権利条約」を子どもに説明しました。

子どもの権利条約,児童の権利に関する条約
先日、我が家の子どもたち(2名)に、「子どもの権利条約」について説明しました。本人たちはどこまで理解できたかはわかりませんが、とにかくやってみました。30分くらい。

 

説明の前に、まず父と母ふたりとも、子どもたちに謝りました。彼らが小さい頃、感情的になって怒ったこと、夫婦喧嘩を見せたことを。「子どもの権利条約」のベースとなる「人権」の考え方からすると、子どもは親の所有物ではなく、尊重されるべき一人の人間。だから、辛い思いをさせたら謝るのは当然です。これから人権の話をする人が、まず君たちの人権を尊重するというメッセージです。

 

伝えたかったのは、次のようなことです。

 

「子どもも大人も、生きる主体としてはまったくフラット。大人だからよくて子どもだからダメ、ということはない。だから君たちが、大人がやることがおかしいとか嫌だと思ったら、それを表明してもいい。その権利が子どもの権利条約12条【意見表明権】として、世界中で保証されている。だから君たちも、そうしてよい」

 

僕は最近さまざまな場面で、「子どもの権利条約」の影響に出会います。僕自身も言及する機会は増えています。ならばまず、自分の子どもたちに説明することは避けられませんでした。社会全体が「子どもの権利条約」に重きを置く方向に変化しているのです。

 

* * *

 

フランスの哲学者ロラン・バルト「作者の死」は、作者の意図と読者の解釈はそれぞれ独立しているという概念です。美談に感動したけど、それがウソだとわかると怒る人がいますが、「作者の死」を適用すると怒らなくてすみます。「ウソの美談を作った人」と「美談に感動した私」は、それぞれ独立した現象だからです。美談がウソであっても、感動した人の感性の素晴らしさは揺るがない。書かれたものは、それくらい自分に引き寄せて解釈してよいのです。

 

同じ前提で、「子どもの権利条約」について、僕なりに解釈をしています。2016年の児童福祉法改正は、「子どもの権利条約」の効果で、「恩恵的福祉観」から「権利主体としての子ども」に大改正されました。この変化を僕は次のように捉えています。

 

「守ってあげる」から「こっちにおいでよ」へ。

 

「恩恵的福祉観」は「強くて優しい人が守ってあげる」という考え方。例えば民法822条の懲戒権(※1)は「子どもは、強くて優しい大人が守ってあげる。でもそのかわり言うこと聞かないなら、懲らしめてよい」という、社会へのメッセージになっています。教育基本法第1条には「教育は、人格の完成をめざし」という言葉がありますが、これは「(弱い子どもを守れるような)強くて優しい大人を目指しなさい」という、社会へのメッセージになっています。

 

どちらも「強くて優しくて力がある“完成した人間”」という基準を暗黙の前提としています。でもこんな完璧な人間には誰もなれないので、追い詰められて近年は「おまえのため」というパターナリズム(※2)に転化し、パターナリズムは「なぜおまえのためを思う私の気持ちがわからない」という暴力に転化して、実際に悲惨な事件に至っています。

 

 「権利主体としての子ども」はどうでしょうか。子どもの権利条約第3条(Convention on the Rights of the Child Article 3)で明文化された「子どもの最善の利益」(the best interests of the child)は、あらゆる言語に翻訳されて世界中に広がっています。2016年の児童福祉法改正はこれを受けてのもので、ほぼ同じ言葉で反映されています。

 

(改正児童福祉法

(児童福祉の理念)

第一条 全ての児童は、児童の権利に関する条約の精神にのっとり、適切に養育されること、その生活を保障されること、愛され、保護されること、その心身の健やかな成長及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有する。

(児童養育の責任)

第二条 全ての国民は、児童が良好な環境において生まれ、かつ、社会のあらゆる分野において、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され(※3)その最善の利益が優先して考慮され(※4)、心身ともに健やかに育成されるよう努めなければならない。

 

(下線と※は筆者)

 

 これは「子どもの将来にとって最も良い選択を、大人が判断して行為しなさい」というメッセージです。僕の言葉でいうと、「価値基準が変数として扱われている」のです。押し付けるような“基準”がない。となると大人は、自ら価値を創り出して、子どもには「こっちにおいでよ」という以外にありません。選ぶのは、権利主体である子ども自身だから。大人は、自分たちの価値観を押し付けることはできないように構造化されいます。

 

このアイデアは、歴史の中で少しずつ積み重ねられてきた、人間の知恵の結晶だと思います。

 

では「こっちにおいでよ」が最もうまく機能するのはどういうときか。それは「楽しそう」「面白そう」に見えるときです。子どもは、大人が楽しそうに、面白そうに生きているのを見て、寄ってくる。社会に参加したくなるし、コミュニティの構成員になりたいと思う。

 

子どもの権利を守るためには、まず大人が楽しそうにすること、人生を面白がること。能天気すぎるかもしれませんが、僕はこう解釈しています、僕自身のために。僕が「子どもの権利条約」で子どもたちに伝えたかったのは、父と母は君たちが来たおかげで楽しく生きている、君たちにもそうなってほしい、ということなのかもしれません。伝わった実感はないですが、感じてはくれたでしょうか。

 

* * *

 

子どもの権利条約」は、人権思想を拡大して子どもに当てはめたものです。「子ども」とは「他者」の言い換えなので、「子ども」の代わりにどんな変数を入れても成り立ちます。大人、男性、女性、私、あなた。…つまりこれは、形式なのです。しかも「子ども」は将来の「大人」なので、大人が大人について語る自己言及の形式になっています。「きずなメール」自体が、創業時から自己言及性を強く意識した事業です。だから「子どもの権利条約」に自己言及性を発見したとき、僕はどうしても、まず自分の子どもに説明しなければならないと感じました。

 

そして、説明するために、「子どもの権利条約」を子どもに向けて話すためのキットや資料がないか検索しましたが、見つかりませんでした。探せばあるかもしれませんが、すぐには見つからなかった。仕方ないので、自分でざっくりしたものを作りました。所用時間15分くらい。せっかくなので個人情報を抜いて、少し体裁整えて共有するので、よかったら使ってください。ネット社会の良慣行として、誰かが手を加えてバージョンアップして下さることを祈ります。 

 

drive.google.com

 

そろそろ梅雨が開けそうな夕焼けです(事務所のエントランスから撮影)。

f:id:yukkiestar:20190712201007j:plain

 

 

(※)について

 

(※1) 民法第822条「 親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。」という条文。体罰容認の根拠となっている。民法のような基本的な法律は、改正に時間がかるが、2019年現在、度重なる虐待死事件を受けて、数年後に見直しが検討されている。
参考:「シンポジウム「子どもへの暴力・虐待防止のための「体罰の根絶」を目指して」

(※2)パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。(Wikipediaより)

 

 (※3)児童の権利に関する条約 第12条1「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。」が反映されている。

 

(※4)児童の権利に関する条約 第3条1 「児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。」が反映されている。

参考:外務省 「児童の権利に関する条約」全文