きずなメール・プロジェクト 代表のblog

顔と名前を出す人生です。

読書メモ:児童福祉法改正等をめぐる実記

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僕は本に線を引き、ページを折る”dog ear” (犬の耳)しながら読むタイプ。この本はあまり期待せずに読み始めたのでですが、結果として一気読みして↓こうなりました。

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塩崎恭久衆議院議員の手記です。穿った見方をして真実は話半分と割り引いても、迫真の内容。ストーリーを要約すると、

①2016児童福祉法改正
塩崎氏、「子どもの権利条約」と「家庭養育優先の原則」の重要性認識して、厚労大臣のときに児童福祉法の改正に着手し、2016年に実現。(このときの攻防が凄い)

②新しい社会的養育ビジョン
児童福祉法改正とともに、アクションプランとして「新しい社会的養育ビジョン」策定された。

③骨抜きにされかけた「新しい社会的養育ビジョン」
厚労大臣退任後、反対派により「新しい社会的養育ビジョン」が骨抜きにされかける。

都道府県社会的養育推進計画の策定要領
③の状況に対応するため、一議員として「都道府県社会的養育推進計画の策定要領」を作ることに尽力。

以下、自分の備忘とスタッフへの共有を兼ねたメモです。「   」は引用。個人的意見、感想は(私見)と明示しました。

 * * *

・「ブカレスト早期介入プロジェクト」(P40)。

私見ルーマニアチャウシェスク政権時の孤児を社会復帰させるプロジェクト。子どもの愛着形成(ボウルビィ)を裏付ける研究として引用が多い。これにより、子どもを施設で養育するより「家庭的環境で養育することが大事」となり、「里親」を増やす世界的な潮流ができた。

私見)法改正のプロセスは、塩崎氏が厚労大臣として「大臣指示」を「厚労省」に出して、「厚労省」が「回答」をするやりとりで進む。「指示」をスルーするような「回答」が普通に帰ってくるプロセスに驚く。そもそも「回答」する主体が「厚労省」というのは何だろう。具体的な部局や人があるのだろうが実名は出せないだろうし、出すべきでもないと思う。

私見児童福祉法がどう改正されたか確認しておくと、下記の通り。★は筆者。

(改正前の児童福祉法

第1条 ★すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、かつ、育成されるよう努めなければならない。

第2条 すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない。 

(2016年改正児童福祉法

第1条  ★全て児童は、★★児童の権利に関する条約の精神にのっとり、適切に養育されること、その生活を保障されること、愛され、保護されること、その心身の健やかな成長及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有する。

第2条第1項  全て国民は、児童が良好な環境において生まれ、かつ、社会のあらゆる分野において、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、★★★その最善の利益が優先して考慮され、心身ともに健やかに育成されるよう努める。

★主語が「国民」から「児童」に変わった。
★★海外の条約を拠り所にしているのが驚き。
★★★児童の権利に関する条約の核となる思想「子どもの最善の利益」(the best interests of the child)が日本の法律にそのまま入っている。

・(私見)「大臣指示」によって2条「最善の利益」、および「家庭養育優先原則」が変化していく過程をまとめたページ↓ 

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・「平成28年の改正では、「体罰禁止」も法案に盛り込もうと取り組んだが、各方面から抵抗が強く残念ながら十分な成果を得ることができなかった。」(P59)

・(児童相談所は)「保健所と同じように、国から自治体に設置義務づけできるのが正しい地方分権の解釈だ。」 (P73)

・「しかし法務省や裁判所では、一時保護や保護者指導への司法による関与の必要性をなかなか認めようとしなかった。そのため、私は、自分自身が再び直接法務省と話すしかないと考えるに至った。」(P87) 

・「日本では欧米と比べて児童福祉における「司法関与」が圧倒的に弱いことを再三耳にしていた。」(P88)

・「「引き続き検討」(霞が関用語では「やらない」という意味)であり」(P89)

私見)児相には、子どもを守るための「親子分離」と、子どもを家庭的環境に戻すための「親子再統合」という両方の機能が期待されいるが、これを児相が「子どもの最善の利益を考慮して判断できる」とするのは無理がある。こういう矛盾が噴出した地点で虐待死が起きるので、「分離」に司法が関与するは必須と思われる。

・「シングルトン卿は、「日本は家庭養育優先原則への抜本的法改正を行った今、次にやるべきことは明らかだ。それは新規施設入所停止することだ」との、担当大臣としても思いつかなかった明確なメッセージをいただいた。まさに目からうろこが落ちる思いだった。」(P100)

・「一方、厚労省は、最後まで「数値目標や期限設定に際しては、地域の実情を踏まえて設定する」と主張し続け、私たちが「子どもの権利と家庭養育優先原則地域性はない」文書で何度も修正提案しても、却下し続けた。すなわち、子どもの権利は最善の利益に「地域性」があるはずもなく、新たに法律に明記された子どもの権利から考えれば、現状の里親等委託率が低ければ数値目標も低く、との論は成り立たないと反論した。」(P116)

・「そんな折、平成30年の6月に入って「結愛ちゃん事件」が大きくマスコミに取り上げられるようになった。(中略)こうした世論の流れに 、厚労省の最後は私達が唱え続けた考えを是認せざるを得なくなった。 」(P117)

私見)キングダンのいう「政策の窓が開いた」状態。

・「社会的養育問題は「票にもカネにもならない」 と言われ、政治的にほとんどかえりみられることはなかった。」(P128)

・「「コンセンサス方式」が厚労省の常套方式だ。」(P139)

・「私たちは議連において、児童相談所での「介入」と「支援」のセクションを明確に分ける法文とすべき、と強く主張したが、内閣法制局の論理だということを盾に、「担当者を分ける」との法文になった。」(P145)

私見)前出「親子分離」が「介入」、「親子再統合」が「支援」と重なっている。この正反対の機能を同時に実現できる仕組みは現実的にありえないので、明確に分けようとしたが、ということらしい。

・「子どもを虐待から守るとは、すぐれて「法律問題」であり、この基本的な考えが現場で働く人に定着していないことが、日本の社会的養護推進体制が脆弱な原因の一つだと思う。」(P146)

・「日本小児科学会が公表している虐待死件数の推計は、厚労省調べに比べて圧倒的に多く、3倍から5倍の件数に上る。」(P151)

・(Child Deth Review/CDR 子どもの死亡登録・検証制度について)「小児科の自見はなこ参議院議員などは、この制度創設を目指されて、おり私たちも応援している。」(P151)

* * *

 

以上です。憲法民法のような基礎的な法律を変えには時間がかかります。ですが「しつけのためには一部体罰がふくまれてもよい」という国民へのメッセージになってしまっている民法822条の「懲戒権」条項の改正も遠くなさそうで、希望が持てました。

 

 

 

 

 

 

相性について

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50過ぎたおじさんがNPOで生計を成り立たせているのは、世間様はつかみにくいだろうなとしばしば思う。

だかそれなりに帳尻の合った人生でもあり、感謝はつきない。

誰かの役にたてていることが日々可視化されて実感できることは嬉しい(きずなメールのお礼メッセージとか)し、それが仕事でもあるのはさらにありがたい。

誰に対しての感謝かというと、もちろん周りで関わってくれる人々で、それがおそらく「社会」や「公共」と呼ばれるものの中身だと思う。

そして、「社会」や「公共」のさらにその向こうには、宗教ではなく、アインシュタインスピノザの言うところの、万有在神論としての「神」がいる、と個人的には思っている。

僕は神様と相性がいい。

(通勤電車の中、所用時間10分)

ライフステージが変化しました。

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十数年ぶりにレコードとターンテーブルを出しました。


娘がつかまり立ちを始めたとき、 封印しました↓。危ないし、 聞く時間もなかったので。

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本日、 その封印を十数年ぶりに解きました。その時、「 ライフステージが変化した」という言葉が浮かびました。


「ライフステージなんて、誰かがそれっぽいこと言ってるだけ」 と斜めから見ていましたが、愚かでした。浅はかでした。


かまり立ちした時の娘は、言葉も話せない、 見守りの対象でした。今は日本語話者として、 日本語で意思疎通できる相手になりました。 しばしばこちらの意見に耳を傾けてくれるし、 時に鋭いオピニオンも発します。先日は「父さんはかまちょだよね」 と言われ、「かまちょ」をググりました。 


音楽は命の源であり癒しです。新しいライフステージでは、 再びこれにどっぷり浸ろうと思います。と書きましたが、 封印時のビフォーアフターで人生は変化し、 今は仕事にやり甲斐と感謝を感じているので、どうでしょうね。


最後に「かまちょ」な父として、レコード自慢。 生涯の伴侶・バート・バカラックの邦盤です!

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(発売元はテイチク株式会社)

現代詩の解放感覚

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前回、「現代詩の価値を伝えるのは、 恩恵を受けた者の役目かも」と述べたので、がんばってみます。 詩を読み始めた頃、この作品に出会いました。

青草の上に

青草の上に腰をおろしましょう
私たちは抱き合わない
そんな力の要ることはしません
青草の上に並んで腰をおろして
私たちは手を握り合わない
そんな力の要ることはしません
五月の青草の上に
全身の力を抜いて
腰をおろしましょう
青草の葉脈を還流する水分を冷く感じながら
私たちは喋らない
私たちは互いに言葉を
かなり遠くへ飛ばすように
言葉だけに力を込めているのです
私たちの言葉が
互いに求め合って
力の限りきつく抱き合い
激しく性殖すればよいと
青草の上に
全身の力を抜いて
思っているだけです
鈴木志郎康詩集『柔らかい闇の夢』より)

若かった僕は、この作品の「私たち」 は恋人同士と思い込んで読み始めました。恋人同士なのに「 抱き合わない。そんな力の要ることはしません」「 私たちは喋らない」。こんな関係あるのだろうか。 でもなんだか青草が心地よい。


恋人だから抱き合うとは限らないし、そもそも恋人とも限らない。 意味はないけど、解放感がある。 この詩の言葉を日々自分のなかに持っていることで、 いつでも解放感覚に至れる。 極端な例えですが、もし監獄や強制収容所に入れられても、この詩の言葉を持っているだけで自由になれる瞬間があると感じられるのです。

 

詩の言葉について書いてみて、「解放感覚」 という言葉が出て来たのが意外ですが、これも言葉の機能。 僕はこの解放感覚を忘れないように、 詩の言葉を持ち運んでいるのかもしれません。


鈴木志郎康という詩人はプアプア詩で有名ですが、 僕はプアプアより後の作品を好んで読みました。 今でも思い出すフレーズやシーンはいくつもあり、 先日も入浴中、フラッシュバックのように思い出しました。

 

kizunamail.hatenablog.com
脳にとって言葉は、音(話し言葉)と模様(文字)です。 これをどう持つか、自分の中に入れていくかは、 世界の見え方に影響します。だとしたら、生きることが豊かになる持ち方ができるといいですね。


田植えが終わったあと。

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読書メモ:みんなの「わがまま」入門。

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個人レベルでのソーシャルアクションがなぜ大事かを、中高生にもわかるように教えてくれる一冊。自分への備忘とスタッフへの共有を兼ねてメモ。以下、


●=キーワード

地の文は同書からの引用

▽=僕のメモ。

 

✳︎ ✳︎ ✳︎

●「個人化」

個人化しているのにも関わらず、それでも親世代から脈々と受け継いだ「ふつう」の幻想を持ち続けている (P 35)

たとえ同じ空間、時間を過ごしていても、同じ学歴や年代や家族であっても、まったく異なる経験をしていて、まったく異なる苦しみを抱えていることは珍しくない。( P 42)
マンハイム「存在非拘束性」

どんな知識も、あくまで物事を捉える「見方」であって、どこかの立場から物を見ている以上、全てを見通すことができない(P158) 

▽いずれも「セレクションバイアス」「観測選択効果」に通じる概念。プラトンの洞窟の比喩もこれに近いような。そもそも「全体」は実在しない。

「経験運動」

もやもやについて話し合う過程が社会運動になることは、近年の社会運動論でもよく指摘されていて、理論的には「経験運動」と呼ばれることもあります。 (P 180) 

▽もやもやについて話し合うとことは、モヤモヤを言葉にする身体的な「経験」して、それがアクション、つまり「運動」に結びつく。

 

●「資源動員論」

それまでは、怒りや感情が人々を社会運動へと押し進めるのだと言われてきた。しかし、資源動員論を唱えている人たちはどちらかといえばクールで、「お金とか時間、そういう資源を持っている人が参加するに決まってるやん」と言います。 (P251) 

よそ者は、 少なくとも彼らに比べればずっとお金や体力という資源を持っている。だから社会運動に参加して、自分のことではない問題を世に訴えることができるとも言えるのではないでしょうか。(P253)

▽資源のある「よそ者」が参加することで、状況が動いていく。状況は当事者だけでは動かせない。海外の子どもの問題に寄付が集まるのは、こういうことなのかもしれない。


(この本を書いた動機として、今の若い人々が)議論の中で感じたことは、彼らがいかに周囲に配慮し、空気を壊さないように生きているかということだ。(P267)

▽息苦しい。もう少し楽にできればと思う。先に生まれた者としては。

 

みんながもっとあいまいな世界に生きている、だから自分もそうしていいんだと考えれば少しは楽になるんじゃないかな、と思います。 (P 222) 

そもそも、私たちの人生ってコロコロ変わります。(P254)

▽変わりますよね。こういう物言いにホッとします。

 

通勤路のジャスミン・ウォール。

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現代詩の価値について

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先日ミーティングで、「現代詩が支えでした」と述べることがありました。言葉にしたことで、現代詩の価値を伝えるのは、恩恵を受けた者の役目かもと感じました。大量情報時代の今、詩は絶滅危惧種です。良いものだから残るとは思うけど、残す努力はしないと。冷めないうちに実践します。
 
* * *
 
詩を読み始めたのは、20歳代後半のある朝でした。出勤前に「英語の科学的学習法」という本を読んでいたら、「日本人は犬を『犬』と認識するが、アメリカ人は犬を『dog』としか認識しない」といった一文があり、これを読んだ時「人間は言葉でできている。ならば詩だ」となり、そのまま家を出て荻窪駅前のブックオフに寄り、詩集らしきもの探して開いたときに出会ったのが、この作品でした。
ことば
 
谷川俊太郎

問われて答えたのではなかった
そのことばは涙のように
私からこぼれた

辞書から択んだのではなかった
そのことばは笑いのように
私からはじけた

知らせるためではなかった
呼ぶためではなかった
歌うためでもなかった

ほんとうにこの私だったのだろうか
それをあなたに云ったのは
あの秋の道で
思いがけなく ただ一度
もうとりかえすすべもなく
 
詩は言葉の運動です。哲学や論理の別の顔です。人間は言葉でできているので、紙の黒い模様(=文字)や脳に浮かんだ音の並びで、いつもの世界が違って見えてくる。それはスペクタクルで官能的で、脳がねじれるような感覚。短いので、身体ひとつで持ち運びできます。
 
この「ことば」という作品は、「私」が何をいったかはわからない。答えがあるわけでもない。でもそこに何かあったように感じられ、それを知りたいと思わせてくれます。
 

これを読んだとき「ああ、これこれ!」と説明不能な納得をしてその詩集を買い、詩を読む日々が始まりました。

 

好んで読んだのは谷川俊太郎黒田三郎鈴木志郎康石垣りん小池昌代など。記憶力は弱いですが、フレーズはいっぱい覚えているので、身体化されているのでしょう。

 

* * *

 

記憶はウソをつくので、僕の「ある朝から突然、詩を読むようになった」というストーリーは、割り引いて捉える必要があります。

 

僕の読書はそれまで、ミステリーやSFでした。それでも、韻文などの「詩」が、文学として最上級の敬意を払われていることは知っていました。その秘密を知りたいと思っていて、この朝、自分なりの手がかりを得たのだと思います。20年以上も前の話です。

 

詩は短詩形、light verse ともいわれ、世界中で親しまれている言葉の形です。短歌や俳句、漢詩も詩のバリエーション。TwitterなどのSNSにも、詩に通じる言葉の運動が見られます。

 

検索したら、僕が好んだ作品が若い人々に評価されていて嬉しくなりました。良いものが時代を超えてアーカイブされるのはネットのよいところです。

 

大量情報時代は、自分に何をインプットするかを選べます。詩のような言葉の運動は、日常の風景を変化させます。夕焼けを見て「美しい」という語を結んだ瞬間、その風景が「美しく」なる。瞬間が永遠になる。こういう時間を誰かと共有できれば、素敵ですね。

 

東大前の桜。

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読書メモ:モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究

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悲痛なタイトルですが、中身は、男性であることに苦悩する男性たちが、「当事者研究」という形で、自分の感情を丁寧に言葉にしていくプロセスでした。その緻密さにリスペクトを感じます。

 

男性は自身の痛みや不安、困難を語らない/語れないという指摘や、 被害を被害としては認知しない傾向にあるという指摘がある。 男性は自分の弱さを見せてはならないと教えられて育ってきている場合が多いし、自分の弱さを見せようものなら、周りの男性に男らしくない男性とみなされ、 集団の中で周辺に追いやられてしまう危険さえある。不安、苦痛、葛藤といった感情は、いわば男性的感情規則から逸脱しているのだ。そのせいでずっと一人で悶々と悩み続けたり、その経験に目を背けたり否定したりしてしまう。(P96)

 

男性は、弱い自分を見せてはいけない、辛さを伝えて助けを求めるのは恥だという規範は根強い。僕自身も囚われている自覚があります。

 

言葉にできないことにイライラする。爆発する。やがて暴力となる。これが状況を変える成功体験として積み上がってしまうと、内面化して「オラオラ」になる。

 

イライラ→オラオラ。

 

逆に抑え込んで、心が病んだり、認知が歪んだり。こうしたことに至らないためにも、辛いことを「辛い」、悲しいことを「悲しい」と言えることが、いかに大事か。わかっているけど、50年以上オラオラを内面化してきた自分を変化させるのは、容易ではありません。

 

フラットな対話は大事ですが、対話は「自分の考えを言葉にできる」ということが暗黙の前提です。そもそも、うまく言えない、伝えられない人に、対話は酷です。脳の機能からみても、考えや感情を言葉にできるできないは、個人差があります。話し言葉は、とくに個人差が大きい。この点は男性も女性も変わらないと感じます。

 

悪意は対処されなければ、循環する。どうしてこんなにも、現代の日本社会が悪意に満ちているのか ーー私は、世代を超えて過去のツケが回ってきているのだと思っている。その最たるものは、戦争の被害・加害によるダメージである。 被害経験もさることながら、加害責任と向き合ってこなかった日本社会のツケは大きい。敗戦後、非人間的経験を経て戦地から帰ってきた男たちが作った家族が、闇を抱え込んだまま、次世代、次々世代を育ててき。過去を学ばないものは、同じ過ちを繰り返すだろう。もちろん、片棒を担いだ女たちにも責任がある。(P286 解説) 

 

「悪意」を「怒り」とも捉えられます。

 

子ども虐待の根っこに、比喩ではなく、75年以上も前の「戦争」があると感じることが何度かありましたが、この解説も同様の指摘で、近い見方をする人がいる安心感を感じました。

 

戦争では、恐怖を怒りで克服する振る舞いが日常化します。「克服」だと良い事のようですが、実際は「転化」です。1931年の満州事変くらいから、日本全体が恐怖を怒りに転化する日々となり、戦後、これを内面化たち大人たちが社会を構成していく。怒りは世代を超えて伝わり、その残滓は今も僕の中にあると感じます。

 

「私を怒らせるとただじゃ済まないぞ」という暗黙のメッセージは今もしばしば受けますが、今の僕は、自信を持って、逃げるようにしています。「逃げるは恥だが役に立つ」し、人生は有限なので、大切な人との時間を優先するほうが良さそうですしーー

 

なんとなく春気配。

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