きずなメール・プロジェクト 代表のblog

顔と名前を出す人生です。

「言葉遣い」(wording、語法)について

僕は団体の中で、言葉遣いにうるさいです。松本さんからは「ちょっと言葉狩りになっていない?」ともいわれます。スタッフの皆さん、息苦しくて申し訳ないです。

 

その理由について考えて整理してみました。大きく3つの要因に分けられます。


①社会的要因
②個人的要因
③業務上の理由

 

ひとつずついきましょう。

 

* * *

 

①社会的要因

古くから、次のような考え方があります。

 

量的変化は質的変化をもたらす。
質的変化は量的変化をもたらす。

 

今回の場合は、「言葉の量」が増えたので、「言葉の質」が変化してきたのです。ではどれくらい増えたのででしょうか。 

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(図表3-1-1-1 デジタルデータ量の増加予測 (出典)総務省「ICTコトづくり検討会議」報告書 より)

 

こちらは総務省のWEBサイトにある「デジタルデータ量の増加予測」のグラフです。デジタルデータとはこの場合、社会の中に流れている情報量と考えてください。

 

その情報量は、高度成長のテレビ新聞の時代でもまだ平坦です。それが2000年以後爆発的に増えているのは、インターネットの普及によるものです。予測では2020年、つまり来年、情報量が40Zb(ゼタバイト)に達します。

 

「ゼタバイト」とは 10の21乗のこと。地球上の砂浜の砂粒をすべて集めると、1ゼタバイトだそうです。つまり40ゼタバイトとは、「地球40個分の砂浜の砂粒の量」です。

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インターネットの普及で、デジタルデータの情報量が指数関数的に増えています。そのデジタルデータの中に、言葉や音声情報も含まれます。

 

「量的変化は質的変化をもたらす」ので、言葉の「量」が増えると、言葉の「質」も変わってきます。「質」とはそのまま「意味」です。「意味」は普遍・不変ではなく、どんどん変わります。同じ言葉が、世代や集団によって異なる意味で使われることが普通になりつつあります。

 

僕らは「言葉」の「意味」が加速度的に変化する渦中にいます。その変化を見逃したくないので、過敏になるようなところがあります。


過去に類似の例があります。グーテンベルクの印刷革命です。15世紀のヨーロッパで「聖書」は、字が読める一部の特権階級のものでした。市民は聖書の言葉を、その特権階級を通してしか知ることができませんでした。

 

ですが活版印刷機の発明により、聖書が大量に複製されて一般市民も読めるようになると、そこには「神の前ではどんな人間も平等」などと書いてあり、特権階級の「特権」自体が疑問視され始めて、これが後の宗教改革、市民革命につながっていきます。聖書の大量複製により、「神」という言葉の「質」が変化したのです。

 

事務所にはグーテンベルクが初めて印刷したとされる「42行聖書」のレプリカを飾っています。「変化の渦中にある」ことを忘れないためです。

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②個人的要因
僕自身の資質もあると思います。脳の認知のことです。「単語圧」が強く働きやすいというか。

 

「今度食事でもご一緒に」が「社交辞令とはこういうものだ」と腹落ちしたのは、おそらく40歳過ぎてからです。それまでは「ではいつにしましょうか?」と問い返していました。問い返さなくても、「いつ誘ってくれるのかな」と待っていました。もちろん頭では、社交辞令と理解しています。でも「食事」「一緒」という「単語」が脳に刷り込まれ、圧として働く感じです。

 

待ち合わせしたら、基本的には10分前に行くタイプです。約束した言葉は、「守らないと」という単語の圧が常に働きます。だからできるだけ、重い約束は避けます。自分が辛くなるので。「自分への目標値」とかは、できるだけ幅を持たせて設定します。自分が辛くなるので。

 

「”単語”で世界を認識するタイプ」と自己分析しています。”文脈”になると、長すぎてついていけない。脳の容量が少ないのかもしれません。逆に”単語”について受け取る情報量が他の人より多いのかもしれません。こういった資質を「発達に課題がある」と分類したり診断することもできますが、これが資質なのか文化的なものかもよくわかりません。

 


僕は、自分のこうした資質に無意識の自覚があったようです。きずなメール ・プロジェクトを創業したときに、最初にやったのが、「ステートメント」を作ることでした。言葉にしたらそれを「守らないと」という圧が働きやすい。ならば理想を言葉にすることで、自分の行為を、言葉に圧してもらおうとしたようです。

 

その「ステートメント」は、今もほぼ原形のまま、こちらに掲載されています。

www.kizunamail.com

こんな感じで「言葉」に圧されやすい自分がいます。だから物事を「的確な言葉」で捉えられれば的確な方向に、「良い言葉」で捉えられれば、概ね良い方向に圧されて行く、と思っています。

 

反面、「よくない言葉」にも圧されやすい。だから「よくない言葉」は避けるし、使わないようにしています。とくにオラオラ的な言葉遣いと、その言葉遣いに象徴される発想や文化は、「避ける」というレベルを越えて、嫌です。暴力的な言葉遣いに嫌な思いをして育ったからです。

 

ということで、言葉遣いに「敏感」というより、「過敏」になる自分がいます。


③業務上の理由

「言葉は認識の枠組み」だと思っています。「思っている」というより「事実」です。だから用いる言葉で次第で、物事の見え方が変わります。

 

仕事においては、何よりも型にハマった「紋切り型」の言葉遣いを避けたい。「紋切り型」の言葉遣いは「紋切り型」の見方につながり、可能性を見落としてしまうことになりやすいからです。

 

わかりやすい例として、団体内で「メルマガ」という言葉を使わないのは、ご存知の通りです。

 

創業当時、自分がその時の知識と資金力でできる「届け方」が、世間で言う「メルマガ」という形式でした。ただ僕は、根拠も説明できないうちから、避けてきました。「メルマガ」という「紋切り型」に押し込まれたくなかったのです。事実として、「メルマガ」を発行したかったわけではなかったのですから。

 

「きずなメールの core competence は”原稿””コンテンツ”」と言語化できたのは、当時のプロボノチームの協力があって、創業から1年以上立ってから。言語化されるまではまでは苦しかったです。

 

最近とくに気になるのは、事業や活動が”戦い”の「紋切り型」で語られることです。「マーケット」「シェア」「戦略」「競合」等など。これに僕の「男性性」が拍車をかけます。「勝つこと」や「思い通りコントロールできる」のは「男らしい」と同義語のように感じてしまう自分がいるのです。ここに「単語圧」もはたらくと、隊長になりたいバカ男子の完成です(汗)。


そんな自分を一旦はカッコに入れて、「果たして僕は物事や状況を”制御して””勝ちたい”のだろうか?」と自問すると、そんなことは無いわけです。僕は事業を「継続したい」と思ってます。「広げたい」のは「継続したい」ためです。何かに「勝つ」より、どちらかというと「仲良く」「楽しく」やりたい。なのに「戦略」や「競合」などの「紋切り型」の言葉遣いをしていると、こういう大事な部分が簡単に欠け落ちてしまうのです。

 

最近、Twitterで有名人が、「男を見せろ」という表現を使って炎上していました。これはその人の本心というよりは、気持ちが高ぶって、使い慣れた「紋切り型」の言葉遣いをしただけだと思います。

 

言葉は意思や感情を伝えるものといいますが、それ以上に、「発する言葉」が僕らの意思や感情を形作っていきます。「紋切り型」の言葉遣いは、便利だし必要ですが、うっかり使うと可能性や自由を簡単に限定してしまうので、注意深くありたいのです。

 

* * *

 

こんな感じで、言葉遣いに過敏になる自分がいます。確かにスタッフの皆さん息苦しいかもしれませんが、そこはいつものように、「機会」として捉えていきたいのです。言葉に「過敏」になるというより、アンテナを立てておいて、日常の言葉の意味を新しく作り変えていく、というような。

 

先日読んだこの本で、「トマスの公理」を知りました。 

社会学史 (講談社現代新書)

社会学史 (講談社現代新書)

 

「 トマスの公理」の解釈はさまざまですが、僕の中では「ある現実を言葉で定義したら、それは新しい現実になる」と受け止めています。

 

最初に「ステートメント」を作ったのは、無意識のうちに「トマスの公理」的な現実を目指していたのかもしれません。

 

また僕らは、「メルマガ」だったかもしれないものを、自分たちの想いと行動で「きずなメール事業」と定義し直すことで、社会における新しい役割を創り出しています。これからも、これをさらにドラスティックにやっていければと思っています。

 

冬の足音が聞こえてきましたねー。