きずなメール・プロジェクト 代表のblog

顔と名前を出す人生です。

読書メモ:モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究

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悲痛なタイトルですが、中身は、男性であることに苦悩する男性たちが、「当事者研究」という形で、自分の感情を丁寧に言葉にしていくプロセスでした。その緻密さにリスペクトを感じます。

 

男性は自身の痛みや不安、困難を語らない/語れないという指摘や、 被害を被害としては認知しない傾向にあるという指摘がある。 男性は自分の弱さを見せてはならないと教えられて育ってきている場合が多いし、自分の弱さを見せようものなら、周りの男性に男らしくない男性とみなされ、 集団の中で周辺に追いやられてしまう危険さえある。不安、苦痛、葛藤といった感情は、いわば男性的感情規則から逸脱しているのだ。そのせいでずっと一人で悶々と悩み続けたり、その経験に目を背けたり否定したりしてしまう。(P96)

 

男性は、弱い自分を見せてはいけない、辛さを伝えて助けを求めるのは恥だという規範は根強い。僕自身も囚われている自覚があります。

 

言葉にできないことにイライラする。爆発する。やがて暴力となる。これが状況を変える成功体験として積み上がってしまうと、内面化して「オラオラ」になる。

 

イライラ→オラオラ。

 

逆に抑え込んで、心が病んだり、認知が歪んだり。こうしたことに至らないためにも、辛いことを「辛い」、悲しいことを「悲しい」と言えることが、いかに大事か。わかっているけど、50年以上オラオラを内面化してきた自分を変化させるのは、容易ではありません。

 

フラットな対話は大事ですが、対話は「自分の考えを言葉にできる」ということが暗黙の前提です。そもそも、うまく言えない、伝えられない人に、対話は酷です。脳の機能からみても、考えや感情を言葉にできるできないは、個人差があります。話し言葉は、とくに個人差が大きい。この点は男性も女性も変わらないと感じます。

 

悪意は対処されなければ、循環する。どうしてこんなにも、現代の日本社会が悪意に満ちているのか ーー私は、世代を超えて過去のツケが回ってきているのだと思っている。その最たるものは、戦争の被害・加害によるダメージである。 被害経験もさることながら、加害責任と向き合ってこなかった日本社会のツケは大きい。敗戦後、非人間的経験を経て戦地から帰ってきた男たちが作った家族が、闇を抱え込んだまま、次世代、次々世代を育ててき。過去を学ばないものは、同じ過ちを繰り返すだろう。もちろん、片棒を担いだ女たちにも責任がある。(P286 解説) 

 

「悪意」を「怒り」とも捉えられます。

 

子ども虐待の根っこに、比喩ではなく、75年以上も前の「戦争」があると感じることが何度かありましたが、この解説も同様の指摘で、近い見方をする人がいる安心感を感じました。

 

戦争では、恐怖を怒りで克服する振る舞いが日常化します。「克服」だと良い事のようですが、実際は「転化」です。1931年の満州事変くらいから、日本全体が恐怖を怒りに転化する日々となり、戦後、これを内面化たち大人たちが社会を構成していく。怒りは世代を超えて伝わり、その残滓は今も僕の中にあると感じます。

 

「私を怒らせるとただじゃ済まないぞ」という暗黙のメッセージは今もしばしば受けますが、今の僕は、自信を持って、逃げるようにしています。「逃げるは恥だが役に立つ」し、人生は有限なので、大切な人との時間を優先するほうが良さそうですしーー

 

なんとなく春気配。

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