先日ミーティングで、「 現代詩が支えでした」と述べることがありました。言葉にしたことで、現代詩の価値を伝えるのは、 恩恵を受けた者の役目かもと感じました。 大量情報時代の今、詩は絶滅危惧種です。良いものだから残るとは思うけど 、残す努力はしないと。冷めないうちに実践します。
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詩を読み始めたのは、20歳代後半のある朝でした。出勤前に「英語の科学的学習法」 という本を読んでいたら、「日本人は犬を『犬』と認識するが、 アメリカ人は犬を『dog』としか認識しない」 といった一文があり、これを読んだ時「人間は言葉でできている。 ならば詩だ」となり、 そのまま家を出て荻窪駅前のブックオフに寄り、 詩集らしきもの探して開いたときに出会ったのが、この作品でした。
ことば谷川俊太郎
問われて答えたのではなかった
そのことばは涙のように
私からこぼれた
辞書から択んだのではなかった
そのことばは笑いのように
私からはじけた
知らせるためではなかった
呼ぶためではなかった
歌うためでもなかった
ほんとうにこの私だったのだろうか
それをあなたに云ったのは
あの秋の道で
思いがけなく ただ一度
もうとりかえすすべもなく
詩は言葉の運動です。哲学や論理の別の顔です。人間は言葉でできているので、 紙の黒い模様(=文字)や脳に浮かんだ音の並びで、 いつもの世界が違って見えてくる。 それはスペクタクルで官能的で、脳がねじれるような感覚。短いので、身体ひとつで持ち運びできます。
この「ことば」という作品は、「私」 が何をいったかはわからない。答えがあるわけでもない。 でもそこに何かあったように感じられ、それを知りたいと思わせてくれます。
これを読んだとき「ああ、これこれ!」と説明不能な納得をしてその詩集を買い、詩を読む日々が始まりました。
好んで読んだのは谷川俊太郎、黒田三郎、鈴木志郎康、石垣りん、小池昌代など。記憶力は弱いですが、フレーズはいっぱい覚えているので、身体化されているのでしょう。
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記憶はウソをつくので、僕の「ある朝から突然、詩を読むようになった」というストーリーは、割り引いて捉える必要があります。
僕の読書はそれまで、ミステリーやSFでした。それでも、韻文などの「詩」が、文学として最上級の敬意を払われていることは知っていました。その秘密を知りたいと思っていて、この朝、自分なりの手がかりを得たのだと思います。20年以上も前の話です。
詩は短詩形、light verse ともいわれ、世界中で親しまれている言葉の形です。短歌や俳句、漢詩も詩のバリエーション。TwitterなどのSNSにも、詩に通じる言葉の運動が見られます。
検索したら、僕が好んだ作品が若い人々に評価されていて嬉しくなりました。良いものが時代を超えてアーカイブされるのはネットのよいところです。
大量情報時代は、自分に何をインプットするかを選べます。詩のような言葉の運動は、日常の風景を変化させます。夕焼けを見て「美しい」という語を結んだ瞬間、その風景が「美しく」なる。瞬間が永遠になる。こういう時間を誰かと共有できれば、素敵ですね。
東大前の桜。