きずなメール ・プロジェクトの設立日は2010年11月3日。その前、サービス名について考えていたときに、妻が「きずなメール!」といって、僕は「エーちょっとベタすぎない? かっこ悪いし…」「広めるならベタな方がいいと思う」「そう…でも団体名は"きずなメール"だけだと座りが悪い、”プロジェクト”をつけよう…」とあっさり決まりました。
そうはいっても「きずなメール」という名前、僕はカッコ悪いと感じました。お恥ずかしい話ですが、学生時代の僕は「絆、とか言っちゃってだっせー」という人間でした。今でも「絆」と躊躇いなく言える人を警戒するところがあります。
それでも当時、「きずなメール」という名前は必要だと感じました。3連符のリズムがいいのは確か。だからこれにしました。漢字は硬いのでひらがなの「きずな」にしました。
とはいえ、その後の何年間も、「きずなメールの大島です」とうまく言えませんでした。「絆とかだっせー」と言い合っていた同級生には、なおさら言えない。でもある時期から、こう考えるようになりました。
「同級生に言える/言えない」という基準はどこから来たのか。「きずな」が「かっこ悪い」という基準はどこから来たのか。
さらに、ここから先は、さまざまな説明を選べます。今の僕は、次の説明を選びます。
自意識を超える/多様性を受け入れる、ために「きずなメール」という名前が必要だった。
さらに、
自意識を超えた、と、どの自意識が判断するのか?/多様性を受け入れた、と誰が認定するのか?
こういう問いを誘発し続けてくれる名前が、僕にとっての「きずなメール」という名前です。
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僕はしばしば宗教の関する本を読みます。そこで知った知見を紹介します。
言葉は、無限の解釈が可能です。言葉の用い方に厳格とされるイスラム教の聖典「クルアーン」も、原理的には無限の解釈が可能なので、新しい解釈は「ウラマー」という法学者だけに許されています。この新しい解釈を生み出す行為を「イジュティハード」(アラビア語:اجتهاد、ijtihād)といい、語源は「奮闘努力する」。「新しい解釈を生み出すために奮闘努力する」という意味だそうです。
すでに在るものに、自分から積極的に歩み寄って「奮闘努力」して新しい価値を引き出す。「イジュティハード」を知ったとき、僕は「きずなメール」という言葉に対してこれをやってきたし、「きずなメール」そのものの有り様に似ていると感じました。
いずれ、僕より後に生まれた誰かが、想像もしない形で「きずなメール」の新しい解釈を生み出してくれるような気がしています。その頃には、リンガフランカである英語の「kizunamail」が一般化しているといいなと思ったりもします。
秋になってきました。