20歳代の後半から現代詩を読むようになりました。
その頃から、「詩の言葉と政治の言葉って、何でこんなに違うのだろうか」「詩を書く人が、政治の言葉について書いた文章はないだろうか」といったことを考えてきました。
この問いについて自分なりの納得を得たのは、上野千鶴子さんの本からでした。
①詩の言葉=多義的。
②政治の言葉=一義的。
例えば「りんご」という言葉があったら、①は様々な人が様々が「りんご」を思い浮かべることを前提とした言葉。
②は「りんごとは◯◯である」と社会の中で意味を合意していく言葉。「りんご」の意味について、国会で多数決したり、ときに裁判で決めたり。もともとが揺れている「りんご」の意味を、力ずくで一つに固めて行く言葉。
仕事では、①と②を行ったり来たりしています。行政文書を②の塊だと思って読むと面白いですし、契約書では②に少し①を入れて提案したり。国連子どもの権利条約は、②の合意形成に10年もかけて、しかも6カ国語でやってますから、精度は高い。だから団体の拠り所にしました。
まとめます。伝えたいのは
「考える」とは「別の言葉におきかえる」こと。
「概念」とは「言葉」。
仕事とは「多義的な言葉」と「一義的な言葉」を行ったり来たりすること。
太平洋の女神。