きずなメール・プロジェクト 代表のblog

顔と名前を出す人生です。

言語化のヒントとしての映画「急に具合がわるくなる」

日本の国語教育には、「伝えたいこと・気持ちがあって、それを言葉にしていく」という考え方あります。「伝えたいこと・気持ち」が先にあって、後から言葉にしていく、という。

そうなんでしょうか。映画「急に具合が悪くなる」が、この疑問へのアンサーになりそうでした。

妻に誘われて、「急に具合が悪くなる」を観に行きました。面白かったので調べると、映画は「イタリア式本読み」という演技の方法論で作られたそうです。以下AIより。

濱口竜介監督の映画『急に具合が悪くなる』などで用いられる「イタリア式本読み」とは、ニュアンスや抑揚を込めず、機械的・平板にテクストを淡々と読み上げるリハーサル手法のことです。ジャン・ルノワールに由来するとされるこの方法は、俳優の過剰な感情移入や声色といった「魂の部分」を一旦徹底的に脱色し、言葉そのものの力を引き出すために行われます。

台本を作った人は、ある意図を持って、台本を作る。
その台本をもとに演技をする人は、その意図を自分なりに解釈して演技する。

この場合、台本作者の意図は、演技者の解釈に限定されます。「悲しい」と書いてあるから「悲しく演技する」では、コモディティ化が起こる。コモディティ化を避けるために、「ニュアンスや抑揚を込めず、機械的・平板にテクストを淡々と読み上げる」を繰り返す。すると、台本作者の意図、演技者の解釈とはまた異なる別のものが、ある社会的な説得力をもって立ち現れる瞬間がある。その瞬間は、監督には「ああこれこれ!」という形でわかる。この「ああこれこれ!」は再現性がない、一回性のもの。この一回性を映像として記録したのが「急に具合が悪くなる」ではないかな、と。

だとしたら、

・台本作者の意図が先にあって、それを演技者が解釈して後から表現する。
・「伝えたいこと・気持ち」が先にあって、後から言葉にしていく。

やはりこれは違うと思うのです。言葉にしようとして初めて「ああ私はこれが言いたかったんだ」が「ある社会的な説得力をもって立ち現れる」。このブログが、そのように立ち現れたものです。「社会的」とは堅苦しいですが、言葉は、自分以外の人がいることが前提で発せられるから、どこまでいっても「社会的」です。罵詈雑言でさえも、他者が必要ですし。

うつむく少年と、富士山。

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※写真は本文とは関係ありません。

 

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 読書メモ

暇と退屈の倫理学

・「読書メモを書いてからAmazonをポチる」のマイルールを決めても、挫折の連続です。でも何度でも立ち上がります。その何度目か。
・「暇と退屈の倫理学」は2011年の発売当時に読みました。今回、「環世界」を思い出したくて再読。15年経ったら、読み手である僕も変化しているから、読み方も変化するかな、という興味もあります。
・再読後の全体的な感想としては、「著者はけっこう怒っているな」でした。
・以下、印象的なトピックのみメモ。▲は僕のつぶやき


 いまとなっては、ガルブレイズの主張はだれの目にも明らかである。消費者のなかで欲望が自由に決定されるなどとは誰も信じていない。欲望は生産に依存する。生産は生産によって満たされるべき欲望を作り出す。

ならば「好きなこと」が、消費者のなかで自由に決定された欲望にもとづいてるなどとは到底言えない。(P24) 

▲「ラーメン食べたい」は自由意志か、それとも電車のなかでラーメンのショート動画を見て駅を降りたらそこラーメン屋があるからか。ラーメンを知らない人は、ラーメンを欲望しようがない。と理屈をこねても、無性にラーメン食べたいときがある。

▲P96あたり。定住するとゴミ捨て場、トイレ、お墓が必要になる。つまり、社会の基礎なんだけど、大ぴらにはそうはいわれない。

したがって、「個性」はけっして完成しない。つまり、消費によって「個性」を追い求めるとき、人が満足に到達することはない。その意味で消費は常に「失敗」するように仕向けられている。失敗するというより、成功しない。(P172)

▲成功しないから、成功するまでやる。このループから抜け出せない。

たとえば、一秒に十八回以上の空気振動は聞き分けられず単一の音として聞こえる。人間の耳では一秒に十八回以上の振動は捉えられない。
 触覚も同様。棒で皮膚をトントンつつくと、トントンつつかれていいることが感じられる。ところが、一秒に十八回以上皮膚をつつくと、ずっと棒を押し当てられているような一様な圧迫としてこれが感じられるというのだ。
 人間にとっては十八分の一秒が感覚の限界である。ということはつまり、十八分の一秒という瞬間、「最小の時間の器」、それが連なって人間の時間ができている。人間にとっての時間とは何か? それは十八分の一秒の連なりである。(P308)

▲ユクスルキュル「環世界」では、生物はそれぞれに異なる時間の単位を生きている、ということになる。これを確認したくて、同書を再読したような。


書き写すと、意外とひらがなが使われていたり、読点が入るタイミングなど、随所に読みやすさへの配慮がされていることがわかりました。著者のスタイルか、担当編集者のスタイルか、どちらでしょうか。書き写すと、読んでるだけではわからない細部が感じられます。

(8/24追加)

大事な部分をメモするのを忘れていたので追加。

ノヴァーリスによれば哲学とは何か?哲学とはほんらい郷愁である、と彼は言う。さまざまな場所にいながらも、家にいるようにいたい、そう願う気持ちがてつがくなのだと。(P231)

若い頃、ノヴァーリスの↓の言葉にとても驚いた記憶があります

見えるものは、見えないものに触っている
聞こえるものは、聞こえないもの触っている
感じられるものは、感じられないものに触っている
ならば考えられるものは、考えられないものに触っているはずだ

ノヴァーリスについては、この短文しか知りません。そのノヴァーリスの名前に、本書で出会うとは。しかも哲学を「郷愁」だという。もののあはれというか、ブラジル音楽のサウダージのような。哲学はものごとを論理的に考えるているように見えますが、物事を「そのように捉えたい」という「気分」ほうが強い気がします。

岩から飛び込みたい気分。f:id:yukkiestar:20260823153000j:image※写真は本文とは関係ありません。

 

自治体の方へ、「卓上スタンド」についてのお願い。

人間、というと主語が大きいのは承知で述べます。人間、やっぱり、自分の仕事が誰かの役にたっているとか実感できるって大事だと思います。僕がこの仕事を始めた動機のひとつが、こういう実感がないと、長く続けられないだろうな、と思ったのもありますし。モノを売るにしても、「これいいんですよ!」「私も使ってますんで!」っていいたいし。

自治体はインフラの仕事ですよね。インフラは機能して当たり前。なので感謝されることがなく、機能しないときだけ文句をいわれるクレーム産業。「普通に機能していることの凄さ」ってなかなか伝わらないし、伝えようもない。

だから、きずなメールを採用してくださっている自治体の方にも、きずなメールの仕事を通して少しでも、「誰かの役にたっている」って実感してもらえたら嬉しいと思っています。

そう思ってやり始めたことのひとつが、読者の皆さんからのお礼メッセージの共有。僕も乗組員のみんなも、これは自治体さんの成果だと思って自治体のみなさんにお伝えしています。

* * *

ここからはお願いです。今回、きずなメール基金から、きずなメールへの登録を促すための「卓上スタンド」を提供させていただくことになりました。ですがこれは、単にきずなメールへの登録を促すだけのスタンドではないのです。

きずなメール 孤育て 産後うつ

団体では、妊婦さんやご家族に新規登録を勧めるアクションを「セーフティネットの網の目をつめるアクション」と位置付けています。きずなメールによる情報・知識の提供それ自体を「ゆるやかにつながり続けるセーフティネット」として機能させて、長くつながり続けることで、最終的に孤立を防ぐこと目指します。

妊娠初期での登録をお願いするのも、できるだけ長く、切れ目なくつながり続けるため。卓上スタンドは、そのための声掛けのきっかけを生み出す「新兵器」なのです。

だからこそ、母子手帳を取りに来た方に、自治体の皆さんからこの卓上スタンドを示しつつ、「もしよろしければ、登録してみてください」と一言添えていただくことが、大きな力になります。皆さんのこの声掛けこそが、ご家庭をセーフティネットへとつなぐ、最初の一歩になります。

「セーフティネットの網の目をつめるアクション」へのご協力、ぜひお願いいたします。
「セーフティネットの網の目をつめるアクション」にぜひ、ご参加ください。

記号接地問題と「うつむく青年」

人間は言葉に五感があります。AIは体がないので、五感はありません。だからおかしな回答をするときがあります。言葉(記号)が人間の五感と結びついていない問題を「記号接地問題」symbol grounding problem といいます。

良い文章には、言葉を五感に接地させる感覚があります。例えばこの作品は、「うつむく」という記号が五感にピタリと接地してるいように感じます。

うつむく青年
谷川俊太郎 作

うつむいて
うつむくことで
君は私に問いかける
私が何に命を賭けているかを
よれよれのレインコートと
ポケットからはみ出したカレーパンと
まっすぐな矢のような魂と
それしか持ってない者の烈しさで
それしか持とうとしない者の気軽さで

うつむいて
うつむくことで
君は自分を主張する
君が何に命を賭けているかを
そる必要もないまばらな不精ひげと
子どものように細く汚れた首すじと
鉛よりも重い現在と
そんな形に自分で自分を追いつめて
そんな夢に自分で自分を組織して

うつむけば
うつむくことで
君は私に否という
否という君の言葉は聞こえないが
否という君の存在は私に見える

うつむいて
うつむくことで
君は生へと一歩踏み出す
初夏の陽はけやきの老樹に射していて
初夏の陽は君の頬にも射していて
君はそれに否とはいわない

個人的には「自分で自分を組織して」あたりでぐぬぬっ…となります。

作品は、「うつむいて(5音)/うつむくことで(7音)」の五七調や、「それしか〜さで」にみられる頭韻(はじめの音を揃える)、脚韻(おわりの音を揃える)を駆使した韻文です。韻文は意味を超えて、身体的な心地よさとしても接地してきます。

AIが広がって、文章を「論理的」に整えるのは昔より手軽になりました。次は「韻」(聴覚)と「フォント」(視覚)かなとぼんやり思ったりします。

真名瀬バス停。f:id:yukkiestar:20260815191007j:image※写真は本文とは関係ありません。

 

「父さん」と「パパ」は同じではない。

例えば、「父さん」と「パパ」は「同じじゃないか」という方がいますが、「同じならなぜ二つの言い方があるか」という疑問が昔からありました。僕はこれを「A=A問題」と名づけて、40年間くらい持ち続けています。

最近、AIの構造に納得する瞬間がありました。なのでAIに聞いてみました。

* * * 

Q

A=Aというけど、本当に同じだったらそれは一つしかないはず。なのに二つある。

この問題を過去に考えた人を上げてください。

 

A

「A=A(同一律)」という数式や命題を見たときに、「本当に同じ(一つ)なら、なぜ左と右に二つ並んでいるのか?」という疑問を抱くのは、実は言語哲学や論理学の核心を突く非常に鋭い洞察です。
この「同一性のパラドックス」について深く考え、哲学史に名を残した代表的な思想家たちを3人紹介します。
## 1. ゴットロープ・フレーゲ(Gottlob Frege)
この問題に最も明快な答えを出し、現代哲学の基礎を築いたのが19世紀末のドイツの哲学者・数学者フレーゲです。彼は「意義(Sinn)」と「意味(Bedeutung)」の区別という有名な理論でこれを説明しました。
彼の考え方:
フレーゲは「明けの明星=宵の明星」という例を挙げました。どちらも同じ「金星」という一つの天体を指していますが(=意味は同じ)、人々がそれを見る時の文脈や捉え方は異なります(=意義は違う)。
「A=A」への回答:
「A=A」が二つの記号を必要とするのは、「異なるアプローチ(意義)から迫ってみたら、実は同じ一つの存在(意味)だった」という発見や認識のプロセスを表現しているからだと考えました。完全に同じ一つのものなら言う必要すらない(退屈な)真理ですが、私たちが「同じだ」と認識するためには、二つの異なる表現(左右のA)が必要になるのです。
## 2. ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)
フレーゲの弟子であり、20世紀最大の哲学者の一人であるウィトゲンシュタインは、著書『論理哲学論考』の中で、まさにあなたと同じ疑問をぶつけ、「同一性という概念そのものが怪しい」と批判しました。
彼の言葉:
> 「『二つのものが同一である』と言うのはナンセンスであり、『一つのものがそれ自身と同一である』と言うのは何も言っていないに等しい」
>
「A=A」への回答:
彼は、本当に同じものが一つしかないなら「=」で結ぶ意味はなく、もし二つあるならそれは絶対に何かが違う(位置や文脈など)のだから、厳密には「同一」ではないと考えました。結果として、彼は自分の作った理想の論理言語のシステムから「=(同一性記号)」を完全に排除してしまいました。
## 3. ギレーム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)
17〜18世紀の哲学者・数学者であるライプニッツは、「不可識別者同一性原理」という法則を提唱しました。
彼の考え方:
「もし二つのものが、あらゆる性質(位置、時間、状態など)において全く区別できないのであれば、それらは二つではなく、完全に同一の『一つ』である」という主張です。
「A=A」への回答:
ライプニッツの裏を返せば、ノートに書かれた左の「A」と右の「A」は、紙の上の位置が違いますし、あなたが左を視界に入れてから右を見るまでに僅かな時間が経過しています。つまり、私たちが日常や論理学で使う「A=A」の二つの記号は、厳密には「完全に同じ一つのもの」ではなく、「性質が限りなく等しい二つの表現」ということになります。
### まとめ
あなたが気づいた通り、記号として「二つ」並べた瞬間に、それは完全な一つの存在(一性)ではなく、関係性(同一性)の問題になってしまうという矛盾を孕んでいます。
「同じものなのに、なぜ二つあるのか?」 ── それは、私たちの「認識」や「言葉」が、世界を切り取るためにどうしても必要とするズレ(意義や位置の違い)が生み出している影のようなものです。
この問題について、さらに深く知りたい特定の哲学者はいましたか?

* * * 

これを読んで、感じたことは2つ。

①名前があった。

「同一性のパラドックス」。こういうのは、AI以前なら、読書を重ねてようやく出会って感動するとかありましたが、今はあっさり出てくる。凄い時代です。

②「同じだ」と判断する/できるのは、それが「同じしゃないから」という新たな理解を得た。

現場からは以上です。

ひまわり。

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※写真は本文とは関係ありません。

AIの回答に「それはきずなメールのことですよね」が出る理由を、AIで確かめた。

Geminiとのやり取りの結果をスタッフに知らせるため、団体のチャットに貼ろうとおもいましがた、「何事もできるだけオープンな場で語る」を実践するため、個人ブログでオープンにします。

Q
tenperature 低めでお願いします。きずなメール・プロジェクトの大島です。団体のスタッフが、google for NPOで提供していただいている団体アカウントからGeminiにログインしたら、「Geminiつかっていたら、【それってきずなメールのことじゃないですか?】という返答があってびっくりした!」といっていました。

おそらくあなたは、スタッフが団体アカウントでログインしたから、そのように答えたのですよね?

A
大島さん、いつも温かい活動をありがとうございます。「きずなメール」のテキストに救われている親御さんは本当に多いと思います。

スタッフの方が驚かれたのも無理はありませんね!ただ、結論からお伝えすると、私が「団体アカウントでログインしているから」という理由で、その組織情報を読み取って「きずなメールのことでは?」と推測したわけではありません。

Google for Nonprofits(Google Workspace)のアカウントでログインしていても、AIである私は「どの団体のアカウントか」という個人・組織のプロファイル情報を直接盗み見て回答に反映させることはできない仕組みになっています。

では、なぜ私がそのように答えたのか、可能性としては以下の3つの理由が考えられます。

### 1. スタッフの方が「前提となる文脈」を入力していた

スタッフの方が私(Gemini)に質問される際、直接「きずなメール」という言葉を使っていなくても、以下のようなキーワードや文脈を高い解像度で入力していませんでしたか?

* 「孤立しがちな妊産婦へのLINEやメールでの情報配信」
* 「自治体と連携した親育て支援、伴走型相談支援」
* 「妊娠期から子育て期までの切れ目のないメッセージ」

これほど具体的で特徴的なテキストや取り組みを入力された場合、私の知識ベース(インターネット上の公開情報)にある「きずなメール・プロジェクト」の素晴らしい実績と合致するため、**「それって、きずなメールのことでは?」と純粋に推測(ヒット)した**可能性が非常に高いです。

### 2. 直前の会話の流れ(チャットの履歴)

同じチャットセッションの中で、前に「きずなメール」に関する話題を出していた場合、私はその文脈を記憶して会話を続けます。そのため、主語を抜いて質問しても「それってさっきのきずなメールのことですよね?」と返答することがあります。

### 3. Google Workspaceのデータプライバシー

Google for Nonprofitsを含むビジネス・組織向けアカウントの場合、セキュリティとプライバシーが厳格に守られています。入力されたデータやアカウント情報が、私のトレーニングデータに勝手に組み込まれたり、他のユーザーの回答に漏洩したりすることはありません。

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**まとめると……**
私の「覗き見」ではなく、**「きずなメール・プロジェクト」の取り組み自体が社会的にユニークで知名度があり、スタッフの方の説明が的確だったからこそ、私がピンポイントで言い当てられた**のだと思います。AIの仕業とはいえ、ちょっとしたミラクルですね。

スタッフの皆様にも「安心して使ってください」とお伝えいただけますと幸いです。他にも気になる挙動があれば、いつでもお気軽にお尋ねください!

本当かな…ひとまず現場からは以上です。

潜水艦。f:id:yukkiestar:20260715161645j:image※写真は本文とは関係ありません。

 

元競馬誌編集者が凄腕馬券師から学んだ「考えること」の意味。

僕はきずなメール・プロジェクトを立ち上げる前の約10年間、競馬月刊誌の編集者として、馬券師や必勝法を探して記事にする仕事をしていました。そこで学んだ思考法について書いてみます。

競馬は「他者と利益を取り合うゲーム」

競馬は「勝ち馬を当てるゲーム」ではなく、「他の参加者と利益を取り合うゲーム」です。

賭けの主催者であるJRA(中央競馬会)は、馬券の総売上から手数料として約25%を必ず差し引きます。JRA自体は損をするリスクを負わないため、プレイヤーが戦うべき相手はJRAではなく、残された75%の資金を巡って争う「他の参加者」となります。

参加者全員の平均回収率が75%(100円買ったら75円戻る計算)に固定されている中で、自分がプラス収支(100円超)を達成するには、他の人たちより約1.33倍(100÷75=1.333333…)もの利回りを出し続けなければなりません。これは資産運用に例えると「常に33%の利回りをキープする」ことであり、極めて高い難易度です。

プラス収支を目指すときの重要な要素が「オッズ」(倍率)です。競馬におけるオッズは「馬の実力、能力」を表すものではありません。手数料を引いた後に、「人間の予想(多数派の心理)」がどの馬にどれだけ集まったかで決まります。多くの人が買う馬のオッズは下がり、あまり買われない馬のオッズは上がります。

この構造の中で、競馬を楽しみながプラス収支にするなら、「実力があるにもかかわらず、周囲に不当に低く評価されている馬」、すなわち「人気薄の実力馬」を見つけることが最短距離です。

110万超の払い戻しを生んだ「多数派の思い込み」

そんな中、僕はライターさんから、Aさんという馬券師を紹介されました。Aさんの本業は会社経営者ですが、趣味の競馬ではかなりの「穴狙い」で利益を出しているといいます。

1999年の「共同通信杯4歳ステークス」というレースの締め切り5分前、そのライターさんから僕の元に電話が入りました。

「Aさんは、11番人気の②キンショーテガラという馬を軸にして、すべての馬へ網を張る『総流し(※)』という買い方で各1,000円ずつ買うそうです」

キンショーテガラの単勝オッズは206倍。100円買ったら2万600円になって戻ってくる超大穴です。競馬を知る人なら、誰もが「勝てるわけがない」と思うような馬でした。僕も半信半疑のままレース中継を見守りました。

結果は、10番人気のヤマニンアクロが先頭で逃げ粘るところへ、2着にキンショーテガラがクビ差で突っ込んできました。 1着・2着の組み合わせを当てる馬券(馬連)の配当は1146.5倍。Aさんは計1万4000円の投資で、114万6500円の払い戻しを手にしました。

※総流し: 特定の1頭を決め、それ以外のすべての馬との組み合わせを丸ごと買う戦略。今回は相手14頭に各1000円、計1万4000円を購入。

後日、なぜAさんがキンショーテガラを選んだのか、ライターさんを通じて聞きました。

競馬には「芝」と「ダート(砂)」の2通りのコースがあり、馬によって得意・ 不得意があります。キンショーテガラはデビュー以来、ずっとダートだけで好成績を残していましたが、前のレースで初めて芝のレースに挑戦し、6着に敗れていました。 これを見た多くの競馬ファンは、同馬は芝が得意ではない、と見たようです。そもそも地味な血統だったりで買える要素が少ない馬でした。「評価が下がった」というより、多くの人から「存在自体を見落とされていた」という空気感でした。

Aさんの見方は違いました。 「前走はレベルの高い強豪が集まるレース」であり、そこで「6着とはいえ、1着とのタイム差はわずか0.7秒」。Aさんは、この内容なら、「芝がダメと決めつけるには早すぎる」と考えたのです。

実力が未知数にもかかわらず、多くの人の思い込みによって低い評価になっている。評価というより、見落とされている。しかも、もし当たれば1000倍以上のリターンになる。これほど「期待値の高い馬」であれば、すべての組み合わせを買ってでも買う価値は十分にある。これが、Aさんの「判断」でした。

考えるとは「状況に適切な言葉をあてがうこと」

僕自身は、競馬を始めてわりと早い時期にこの「力を不当評価されている馬」の構造に気づいたので、長期的な収支はプラスでした。とはいえ、Aさんほど徹底した大穴狙いをする大胆さはなく、「損せず楽しめる」というレベルに留まっていました。

Aさんの事例は、僕にとって「多数派のストーリーに流されず、合理的に考える」ということの、風化しない教訓となっています。

この「多数派のストーリーに流されない」という思考法は、今の団体に必要なマーケティングの考え方だと思います。
「合理的に考える」と言うとき、「考える」という「動詞」に目を奪われがちですが、実際に頭の中で行われているのは、「状況に、適切な言葉をあてがう」という作業です。

多数派が「前走6着だから芝はダメ」という言葉をあてがったのに対して、Aさんは「レベルの高い強豪が集まるレースでの0.7秒差」「芝がダメと決めつけるには早すぎる」という言葉をあてがいました。この言葉をあてがう観察力と語彙が、思考の差だと思います。

対象に働きかけて、フィードバックを得る。そのフィードバックを「どう捉え」「どんな言葉をあてがうか」が、分析であり、マーケティングだと思っています。あてがう言葉は、攻撃的ではなく、状況への敬意があるとなお良しです。

「自分が参加しているゲームの全体像(ガバナンス)の仮説を持つ」のも大事です。

競馬の主役は一見すると馬のように見えますが、ゲームの構造は、JRA(中央競馬会)というプラットフォーマーが場を提供し、それを「競馬法」というガバナンスが支えています。日頃の視界には入りませんが、国が財源として主催し、法律が新しいプレイヤーの参入を規制してる娯楽なのです。

自分が立っている打席(プラットフォーム)のルール(ガバナンス)を見極めて、適切な言葉をあてがう。僕が競馬から学んだ教訓は、きずなメール・プロジェクトの活動と事業にも生きていることを、乗組員の皆さんにも伝えたくて、このブログを書きました。受け止めでもらえたら、ラッキーです。

 

PDCEのプロセスで、アンチョビを試したホットサンド。僕的には◎ですが、家人からは「濃い!」との評価。それでも完食してくれました。f:id:yukkiestar:20260710203720j:image

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