読書のアウトプットとして。
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2017/03/27
- メディア: 単行本
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「中動態」とは何か。著者が分厚い本1冊かけて答えていることを一言ではいえませんが、「何でないか」はいえます。
「中動態」とは動詞の「態」(voice)のひとつ。僕が知っているのは「能動態」「受動態」ですが、「中動態」という名前だからその中間、ではないです。
本書では、かつては「中動態」と「能動態」があって、後になって受動態ができたとの仮説が紹介されています。僕らは「能動態」「受動態」は普通だと思っていますが、全くそんなことはないようで、僕は少しホッとしています。明確な結論はないのに、なぜか少し安心できるのです。
この本は、細かい文法の話もあってすんなりとは読めませんが、いろんなところで評判になっています。おそらく多くの人が、読むと安心できるからではと推測しています。
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主体的に行為を選んで、やったことの責任を引き受ける「自己責任」。社会的には大事なことですが、すべてがそんなにクリアカットにいけるものでしょうか。
僕は主体的に生きているかもしれません。でも僕は、日本語で話して考えることを、また大島由起雄であることを、選んで生まれてきたわけではありません。「主体性」ということを、選んだわけでもない日本語で表すことに、主体性はあるのでしょうか。自分で選んだと思ったことは、本当にそうなのか。今日の昼はカレーを食べたいと思ってカレー屋に行ったけど、実は昨日グルメ番組でカレーを見たことを覚えていないだけではないか。
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「支援する」「支援される」のは「能動態」「受動態」的な関係です。僕の仕事は、社会的には「子育て支援」に分類されます。人に説明するときに「子育て支援のNPOです」ということもありますが、いつも少し気後れを感じます。自分の子育てもままならないのに、他人の子育てを「支援する」なんて可能なのだろうかと。「支援できた」とされる状態はどんなものか。また「支援される」とはどういう状態か。
僕の理想は、自分たちがよいと思うモノやコトで、他の人たちに喜んでもらうこと。それが仕事になること。この環が広がっていくこと。「支援する」「支援される」という関係性は、その中での一時的な装いでしかないのに、「能動態」「受動態」的な言葉遣いには、その一時的なものをそのまま固着させてしまうような力を感じます。社会には必要な力だとは思うけど、過剰なのはどうか。この微妙な感じを、「中動態」の存在が思い起こさせてくれるので、ホッとするのかなと。
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「当事者研究」という分野があります。精神障害の分野で注目されているアプローチですが、ここでは「治療する」「治療される」関係性が逆転しているように見えます。現代美術の世界には、作家と鑑賞者の関係性が逆転したかのような「トマソン」があります。僕にはどちらも、能動と受動がある地点から逆転するように見えます。いや「逆転」とは、正確ではない。ある地点を境に、能動が受動に含まれてしまうような感じ。
動作が外に向けて行われるのが「能動態」、主語へ向けて行われるのが「中動態」という説明もあります。後者には「これをやる私は何者か」という問いが含まれているのではないでしょうか。
「支援する」「支援される」関係性にも、同じような地点があって、大事なのはそこかなと。「誰かを助けようと行為したら、助けようとした人の中に自分も含まれていた」というような。できればこういう仕事をしていきたいし、これが本来の仕事のはずだし、すでにそうなっているのではないかと思う今日この頃です。
また今年も春が来ましたね。
(西ヶ原みんなの公園にて)