きずなメール・プロジェクト 代表のblog

顔と名前を出す人生です。

読書メモ:平熱のまま、この世界に熱狂したい 「弱さ」を受け入れる日常革命 (幻冬舎単行本) 宮崎智之 (著)

積ん読」が増えています。ついAmazonでポチってしまうためです。なので「アウトプットしないと、次の本は買えない」というマイルールを作ってみました。

「インプット」(読書)だけって、世界にお返ししていないようで、後ろめたいですし。お返しのひとつが「アウトプット」。僕の場合は読書メモにまとめることとしてみました。

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何度かインタビュー取材をしていただいたことがあります。僕は、話し言葉で伝える能力が壊滅的なので、まとめるライターさんは大変。それでも、僕の話を、補ってかつそれ以上に的確まとめて下さったライターさんが何人かいて、真っ先に思い出すのが宮崎智之さんです。

対談だったこともあり、取材中の宮崎さんは静かでした。だからどんなふう書かれるか不安でしたが、事前確認のためにいただいた原稿を読んだとき、「質問しないで、何で僕の伝えたいことがわかるのだろう」と思いました。

それでも原稿は、大量の赤を入れて戻してました。当時の僕には、そうする必要があったからです。申し訳なかったと思います。すみません。その時のインタビューはこちら。

wisdom.nec.com

その宮崎さんが、本を出されたと聞いて、いつか読んでみたいと思っていて、読みました。

随筆です。随筆は物語ではないので、拠り所は、書き手の「視点」だけ。素手で戦う感じ。以下引用と、・は僕の感想。

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また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起こっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬということをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役割を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞するーーほしいのはそういう実感だ。(P25)

福田恒存(つねあり)からの引用。著者はこういうとき「ぐぬぬ」となるそうですが、僕も「ぐぬぬ」となりました。

ぼくには、 日常で見たものや現象を概念化し、独自の言語を作り出す癖がある。

たとえば、赤ちゃんのことを心の中では「 ほげ 」と呼んでいる。 ほげは「ほげる」という動詞にも変換され、抱っこ紐に吊るされて、爆睡しながら移動している赤ちゃんを見る、「ほげってるな」と思うし、新幹線や飛行機の中で泣いている赤ちゃんも「良いほげっぷりだ」と微笑ましく感じる。(P128

・名前をつける自由な感じ。ウィトゲンシュタインの「私的言語」だ。僕もしばしばやるけど、この完成度にはおよばない。

正義を標榜することはたやすい。しかし、正義を貫き通すのには胆力がいる。信念を掲げても、言葉が、体が瞬間的にはそう反応しない人間の「弱さ」。観念的な信念は、生活の利害と衝突すると脆く崩れ去る僕の人生は、それの繰り返しだ。(P199)

人間を集団や属性、統計などでとらえてしまうことは今でもある。しかし、誰もが取り返しのつかない人生を背負った、のっぴきならない固有の存在である。その人を産んだ人もいれば、その人を愛している人もいる。ぼくはこの当たり前の事実に、とても注目している。ぼくがこの世界に対して共感や親しみを抱けるとしたら、この事実でもってでしかあり得ないだろうと思っている。(P216)

・「のっぴきならない」という語は小林秀雄で知りました。「退っ引きならない」とも書きます。世界にこういう視点がある、というだけで、明日もがんばろうと思えます。

偶然をスクショ↓

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