今朝、いつものようにバンクーバー・サンドウィッチを作ろうとしたら、ゆで玉子スライスがありませんでした。なので、お弁当のおかずで残っていた厚焼き玉子を入れてみました。厚焼き玉子を入れるのは初めて(↑の写真のトマトの下)。
食べると、いつものバンクーバー・サンドウィッチとまったく違う味になっていました。ゆで玉子スライスがたった2枚、欠けただけなのに。同じ玉子で代用したはずなのに。
バンクーバー・サンドウィッチにはゆで玉子スライスが欠かせないと、身に沁みました。
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ゆで玉子スライスの「喪失」によって日々のありがたさを再認識するのは、精神科医ウィニコットの「環境としての母親」に似ています。
「対象としての母親」というのは、 たとえばあなたが今、心に思い浮かべている母親の姿のことです。
母親はこういう人だとか、 こんな思い出があったとか、ひとりの人としての母親の姿があなたの記憶に残されていると思います。 一人のひととしての母親を思い出すとき、あなたは「対象としての母親」を意識しています。
これに対して、「環境としての母親 」は、 あなたに気がつかれず、意識されない母親のことです。
「環境としての母親 」は見えません。 (中略) たとえば、子どもの頃、 タンスを開けたら、 きれいにたたまれた T シャツがしまってありました。 本当は母親が洗濯をし、 干して、そしてたたんでくれたからそこにあるのだけど、 あなたはいちいち そんなことまで考えなかったはずです。 何も考えず 、 T シャツを取り出し、 着て、学校に行く。(中略)
「環境としての母親 」 普段は気づかれない。 失敗したときだけ、 気づかれる。 そういうときに、「環境としての母親 」は「対象としての母親」として姿を現します。 (中略)
うまくいっているときには存在を忘れられ、うまくいかなかったときだけ、存在を思い出される。 逆に言えば、感謝もされないくらいに自然に行われているときに、お世話はうまくいっている。母親=お世話係というのは損な仕事なんですね。
(出所:東畑開人「聞く技術 聞いてもらう技術」 P59-61)
泣けば食事が与えられ、気持ち悪くなったらおむつを替えてもらえるという「環境としての母親 」が完璧に機能していると、子どもはその環境を当たり前だと勘違いしてしまいます。この勘違いが長く続くと、自立が遅くなります。
だからウィニコット、ときどき失敗する「ほどよい母親」が理想だといいます。ときどき失敗することが、子どもにとって「母親もひとりの人間だ」と学習する機会なる。
母親も、今なら父親も、ひとりの人間。できないことだらけなのです。
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問題はここから先。
「程度」の問題がでてきたとき、いつも思うのです。
「【ほどよい】とか【良い加減】が一番難しいし、そもそも最大の失敗は【死】ではないか。だから、失敗のプロセスなしで、【母親もひとりの人間だ】と気付く方法はないのだろうか」
「失敗」を経験せずに、「失敗」を推測して回避する。そのために人間は、理性や記号(言葉)を駆使して、推論したり想像したりするのではないか…などいつもの堂々めぐりが始まります。
ウィニコットのことはこの本から知りました。
ゆで玉子スライスが入ったいつものバンクーバー・サンドウィッチ。良。